ゴンギツネ雑談
2017-01-30T20:10:14+09:00
Ygongitune
思いつくままに
Excite Blog
Izumi Ohzawaさんは書きました。 昨日 15:47 · 日本企業の米国法人も同様の言明を
http://gongitune.exblog.jp/26363979/
2017-01-30T07:00:00+09:00
2017-01-30T20:10:14+09:00
2017-01-30T20:10:14+09:00
Ygongitune
思いつくままに
昨日 15:47 ·
日本企業の米国法人も同様の言明を
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Tim Cook, クックCEOのメッセージの全訳はこちら。
「私は今週、ワシントンの当局者たちと会話をしました。そこで、Appleとにとってもアメリカにとっても、移民の存在がいかに重要であるかを明確にしました。 Appleは移民がいなければ存在しません。私たちの成功と革新は、移民の力がなければありえません。
昨日、イスラム教徒が多い7つの国からの移民をアメリカが制限する大統領令が発効されました。このことについて、多くの皆さんから深く心配しているという声を聞きました。私もこのことを懸念しています。Appleはこの政策を支持しません。
Appleには、昨日の措置の影響を直接受ける従業員がいます。Appleの人事、法務およびセキュリティチームはすでに、この政策の影響を受ける従業員たちと話をしています。そして、彼らをサポートするためにできることを全てやるつもりでいます。AppleWebには、移民政策に関する質問や懸念がある人のためのリソースを提供します。私は、今回の政策が、Appleで働くメンバーと会社にいかに悪影響を及ぼしているか説明するため、ホワイトハウスに連絡しました。
何度も言っていますが、多様性は私たちのチームをより強くしてくれます。 Appleのメンバーには、深い共感力とお互いを支え合う力がある。このことを私は良く知っています。今までにも増して重要になっているこの力が、決して弱まることはありません。Appleの従業員全員がお互いに歓迎され、尊敬され、評価される。そんな環境を、皆さんが作れることを、私は良く知っています。
アップルはオープンな会社です。どこから来ても、どの言語を話していても、誰を愛していても、どの宗教を信仰していても、誰に対してもオープンです。世界最高の才能を誇るAppleの従業員たちは、世界中のあらゆる場所から集まっています。
最後に、マーティン・ルーサー・キング博士の言葉を借りましょう。「私たちは違う船でやってきた。しかし今は同じボートに乗っている」
ティム
This is the email Cook sent to all Apple employees worldwide:
Team,
In my conversations with officials here in Washington this week, I've made it clear that Apple believes deeply in the importance of immigration -- both to our company and to our nation's future. Apple would not exist without immigration, let alone thrive and innovate the way we do.
I've heard from many of you who are deeply concerned about the executive order issued yesterday restricting immigration from seven Muslim-majority countries. I share your concerns. It is not a policy we support.
There are employees at Apple who are directly affected by yesterday's immigration order. Our HR, Legal and Security teams are in contact with them, and Apple will do everything we can to support them. We’re providing resources on AppleWeb for anyone with questions or concerns about immigration policies. And we have reached out to the White House to explain the negative effect on our coworkers and our company.
As I've said many times, diversity makes our team stronger. And if there’s one thing I know about the people at Apple, it’s the depth of our empathy and support for one another. It’s as important now as it’s ever been, and it will not weaken one bit. I know I can count on all of you to make sure everyone at Apple feels welcome, respected and valued.
Apple is open. Open to everyone, no matter where they come from, which language they speak, who they love or how they worship. Our employees represent the finest talent in the world, and our team hails from every corner of the globe.
In the words of Dr. Martin Luther King, "We may have all come on different ships, but we are in the same boat now."
Tim]]>
この文章を書いてもう10年が経つ。
http://gongitune.exblog.jp/26363940/
2017-01-22T19:50:00+09:00
2017-01-30T19:55:32+09:00
2017-01-30T19:55:32+09:00
Ygongitune
ゴンギツネの回想
この文章を書いてもう10年が経つ。
ああ、どうしても変えられなかった歴史の流れ。
古くはあるが、決して諦めはしなかったあの時。
再度今、ここに記しておく。
<2017年1月22日朝に>
2006年 08月 11日の文章
「来た」が来た
A Palestinian boy resisting the Israeli occupiers with a stone in the village of Qabatiyah, Jenin, yesterday (Al-Safir, 8/6/06).
「来た」が来た。
アルジャジーラが配信した一枚の写真を前にして、私は今、深い感慨に陥っている。
テロが起きた。
また来た。
彼らは恐ろしい。
そう言って世界中の飛行機が止まる。
いったい何が来たのか。誰が来たのか。
アラブ系の青年が、と言ってもそれはイギリス人なんだが、彼らがペットボトルに入った数種類の薬品を持って飛行機に乗り、それを合成させて飛行中に爆発させる危険があるという。
その一つ一つの薬品は何の危険もないという。
こんな事があるだろうか。そんなにペットボトルの液体が危険なのなら、そんな事でアメリカの飛行機が落とせるのなら、どうしてイランは原爆を作るのだろうか。
私は不思議に思う。
イランは原爆を作る必要は何ひとつ無い。この方法が簡単で良いはずだろうに。
というのは、誰かがきっとその騒ぎを起しているのだ。
「来たがきた」、「また来た」そう言って大騒ぎを狙っている。
もともと世界で最も強い国と自惚れているのにこの「ペットボトル爆弾」を恐れいる理由がない。
いやそれは、ペットボトルの水がひっくり返るほど、アメリカが、またそれに繫がるイギリスが、日本の政府が、民衆を恐れているからである。
今までなら、そんなことで自分の国家が脅かされるはずはないと自惚れていたのに、今ではそんな日常の事にすら飛び上がって驚くほど、弱々しい政府になったという事実を、全世界の人々に充分証明したのである。
考えてみても「朝鮮戦争」は三年間だったのに、イラク戦争は、始まってもう四年たったのに、その出口も見えなければ、終わりも見えない。アメリカ軍は次々に増軍されている。
私は完全にアメリカは行き詰ったと思う。
イラクでは内戦状況である。
それはアメリカ・イギリス軍やその傀儡政権、それに反抗するすべての民衆との内戦である。
それを取り繕うために、アメリカは、恰もシーア派、スンニ派、クルド人派とそれぞれ対立しているように言う。
それも幾らかはあるだろう。しかし、イラクの民衆が初めから云っているように、外来の軍隊に対しては、あくまで戦う。われわれは、われわれの力で新しい国を創る。そう言っているのだ。
私はこの戦争が始まったとき、侵略した軍隊を、イラクの民衆が喜んで迎えることは絶対にない。かつてパリや、ヨーロッパの都市に入ったときのアメリカ軍が「解放軍」と言われたような状況は、絶対起こり得ない。そう言った。
ところが幾人からは、そんなことを言っても日本では「解放軍」といって迎えたのではないかと反撃を受けた。
私は第二次世界大戦に対する日本の民衆、とりわけ多くのインテリの中に、今もってこの様な弱々しい考えがあることに苦り切った思いがあった。たった四年前だ。
ところがどうだろう。今では、全くアメリカ自身が苦りきっている。
占領ができないだけでなく、引くに引けない罠に引きずり込まれた。
そこに今回のイスラエルのレバノンへの暴走攻撃が始った。
それに輪をかけて、その上ペットボトル騒動がおきた。
私は、アメリカ軍はイラクの民衆から完全に見放され、近く全面撤退を開始すると思う。これ以上戦争する金はもう無いと思う。ほとんど断言しても良いとすら思う。
既にこの本心を聞いたから、小泉は舞い上がって、ラブミーテンダーを歌い、早々と撤退したのだ。
もともと、アメリカに追従する証拠を見せるために、また日本を中東の戦争に巻き込む最初の事業をうまくやるために、何の価値もないイラク出兵をしたのだ。
これは火事場に行って金をもうける、戦後一貫した日本の企業の意見を代弁してである。
戦争は恐ろしい。ただ金だけが儲けたい。このような日本の企業家集団の考えを代表している。
だから戦闘には参加しないで、水を供給する人道支援のごときそぶりをしてイラクに出兵した。
何の必要があって砂漠に水汲みに行くのか。お茶を濁しに行くのか。
その必要はイラクの民衆には全くない。
もともと水のない砂漠に人は住まないのに、砂漠の中では水がいるというインチキ。
イラクはチグリス河とユーフラテス河に挟まれた水の豊かな農業国である。たまたまそこから石油が出ただけである。
そういう所のインフラを壊して、水のない砂漠に水を配って歩くという馬鹿げた論理が小泉の考えである。こんなことは今や白日の下に暴露された。
アメリカがイラクを占領すれば、イスラエルと組んで中東全部が支配できる、そう考えて、気安くアメリカがここに軍を進めた。ミサイルと航空機で簡単にケリがつくと考えた。
それは全世界の民衆から、とりわけアラブの人たちから総攻撃を受けた。それは誰の目にも視ぬ振りをする強盗以外はっきりした事実であった。
こんなことをすれば、回りの民衆を抑圧しているそれぞれの国々で革命が起きる。これは必然である。これがいまアメリカの直面している事だ。
何処にも隠れ処のない一人のパレスチナ少年が、イスラエル軍に石を投げている。
ああ誰か若者が、彼に代わってやれないのか、大人は銃を持てないのか。
年寄りでも、せめてそれに加わって一緒に石を投げられないのか。
私たちは恥ずかしくないか。
「そこに何かがあるから、何かインチキが有る様だ」と言ってイラクに行った後、香田さんが殺された。
その最後の訴えをアルジャジーラの放送で聞いた。
個人責任だ、行った奴が悪いと人々がいう。
戦争を知らない今の若者が、現場に赴いていく無謀さは判る。
ただそこに、いささかのインチキがあるから、それを確かめに行くといった今の若者を、その正義感を受け取ることさえ日本の大人には出来ないのか。
金が有るから、暇があるから外国に旅行に行くもよし。フィールドに調査に赴いていくも良し。
だがこの国がどうなっているのか、世界がどうなっているか、そのことにまったく触れず、それから離れて、青春や学問の真実性があるのだろうか。
若い今西錦司たちはそれがあったから、学問を発展させたし、戦後の活動があったと思うがどうだろう。
私はこの国は、腐敗していると思う。若々しい精神もない、いかがわしい化け物の面の皮を剥ぐほどの勇気はない。ましてや命がけで何かをするという気はない。
そんなことを、せせら笑う小ざかしい人は、この少年の写真を真っ正面からみるといい。
君はこの少年の十分の一、いや百分の一ほどの真実を守る正義心があるか。
私たちはそこに立たされているのではないだろうか。
断言していいが、世界は完全に、いやそう書いて良いか予言することはないが、それはできないが、今までのような状況が、これからも続くことは、もう、そうだ絶対にありえない。
それが今年の夏の日本のいや世界の状況だろう。
君は逃亡するか、目を瞑るか。石を握るか。
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シャコンヌ
http://gongitune.exblog.jp/26363946/
2017-01-22T12:00:00+09:00
2017-01-30T20:05:50+09:00
2017-01-30T19:59:24+09:00
Ygongitune
ゴンギツネの回想
調子が悪くなったコーヒー・メーカーを分解修理していると電話が鳴った。
遠く嫁に行ったMちゃんから電話があった。
しっかり、叱られた。
「まだ生きているか」と。
「夏までには行くから、それまでは生きのびよ」と。
厳命!。
そんな訳で今朝はシャコンヌを聴いている。
深々と心の中に落ちて行く音。
有難いことだ。
https://www.youtube.com/watch?v=QqA3qQMKueA
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夜のガスパール
http://gongitune.exblog.jp/26285365/
2017-01-02T06:19:04+09:00
2017-01-02T06:19:04+09:00
2017-01-02T06:19:04+09:00
Ygongitune
ゴンギツネの回想
≪On ne saurait prendre trop de précautions
par le temps qui court,surtout depuis
que les faux monnayeurs se sont etablis
dans ce pays-ci. ≫
Le Siège de Berg-Op-Zoom
ALOYSIUS BERTRAND
GASPARD DE LA NUIT
夜のガスパール
レンブラント、カロー風の幻想曲
三 ラサール隊長
《この時勢では、用心のしすぎということはあるまい、とりわけ
贋金造りがこの国に住みついてからというものは。》
ペルグ=オプ=ゾーム攻囲
ユトレヒト・ビロードの肱掛椅子に腰かけているヨハン・ブラジウス。サン=ポールの犬時計が町の古びた、煙る屋根から屋根に昼の時刻を鳴り響かせる。
アイルランド材の金箱に腰かけたこの足なえの両替商、俺の下着から取り出した、
――まだ屁でぬくい、――デュカ金貨を安く両替しようと狙っているのだ。
この金貨の出所と言えば、運命と戦さとの血まみれのやりとりが、ベネディクト派の司祭の金袋からドイツ歩兵隊長の財布に投げ込んだ、二千枚の金貨のその一枚。
ええ、いまいましい! この欲張り奴は、俺の金貨を虫眼鏡でのぞきこみ、秤で目方を計っている。まるで俺の剣が修道僧の頭蓋の上で贋金を敲き上げでもしたかのように。
ところで寝とられ亭主殿。急いでくれよ。今しがたお前さんの女房がそこの小窓から花束を投げてやった道楽者を、追い払ってやるような暇も酔狂も、俺は持ち合わせていないのだ。
何しろ早いとこ大ジョッキでぐいぐいやりたくてたまらぬ。――時間は余るし、気分は晴れぬし。ミュンスターの和睦以来、俺は角灯に閉じ込められた鼠のように城から一歩も外に出られぬのだ。
及川 茂訳 岩波文庫
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万家墨面没蒿莱 無題 魯迅
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2016-12-23T16:37:06+09:00
2016-12-23T16:37:07+09:00
2016-12-23T16:37:07+09:00
Ygongitune
ゴンギツネの回想
万家墨面没蒿莱
敢有歌吟動地哀
心事浩茫連広宇
于無声処聴驚雷
無題
万家 墨面して蒿莱に没す、
敢て歌吟の地を動して哀む有らん。
心事 浩茫として広宇に連なり、
声無き処に于いて驚雷を聴く。
一九三四年五月三十日、上海来遊の新居格氏に書いて贈ったもの。
戦争のために、無数の家は廃墟と化して雑草の中に埋没し、
人々は苦痛のために面に墨を塗ったように黒く痩せてしまった。
しかも反動政府は一向にそうした人民の苦しみを哀れんでくれよ
うともせぬ(昔、周の穆王は大吹雪の中で『黄竹歌』を作って
人民の凍餓を悼んだというのに)。私は無限に遠いかなたに思いをはせて、人民の声なき声に耳を傾ける。今にきっとその声無きところから、大地を動かす大雷音が聞こえくるであろう。
魯迅選集 12巻 松枝茂夫 訳 岩波書店
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承前 「徐懋庸に答え、併せて抗日統一戦線の問題について」
http://gongitune.exblog.jp/26260028/
2016-12-23T16:33:45+09:00
2016-12-23T16:33:45+09:00
2016-12-23T16:33:45+09:00
Ygongitune
ゴンギツネの回想
と思われる。つまり、私か病気にかかって、徐懋庸のような悪劣な傾向と格闘できないのはけしがらん、という。
次に、私と胡風、巴金、黄源らの人々との関係についてである。私と彼らとは、最近の知り合いで、すべて文学の仕事上の関係である。まだ親交というほどでもないが、友人であるとはすでにいえる。実際の証拠を提出できずに、みだりに私の友人を「裏切者」だとか、「卑劣」だとか中傷する者に対しては、私は反駁しなければならない。これは私の友人としての道義であるばかりでなく、やっている事を見、人物を見た結果でもある。徐懋庸が、私は人物だけを見て、やっている事を見ないといっているのは、中傷である。私は、まず若干の事実を見てから、徐懋庸らの人問を見たのである。胡風とは、以前から特に親しくしていたわけではない。去年のある日、さる名士が私に話をしたいといって来たので、そこへ出掛けて行ったところ、向うから一台の自動車が走って来て、中かれ四人の男が飛び出して来た。田漢、周起応、ほか二人だった。いずれも洋服で、昻然たる態度で、わざわざ私に通知しに来たのだ、胡風は裏切者で、官憲の犬だといった。証拠は、ときくと、転向した穆木天の口から聞いたのだといった。転向者の言ったことが、左連に来れば御聖勅のように奉られるとは、私は全くもって開いた口がふさがらなかった。さらに何度か押問答を重ねたのち、私は、証拠がきわめて薄弱だから、信じられない、と答えた。その特は、むろん、気まずいままで別れたが、その後は、胡風が「裏切者」であるということを誰からも聞いていない。
ところが奇怪なことに、それ以後というもの、小型新聞か胡風を攻撃するたびに、ともすれば私を引き合いに出し、あるいは私のことから胡風を引っぱって来るようになった。最近の例では、「現実文学」がO・V・の筆記した私の主張を発表してから、「社会日報」が、O・V・とは胡風であって、筆記も私の本意とは合致していないといったり、やや古い例では、周文が傅東華に向って彼の小説を改訳したといって抗議したとき、同紙かその背後に私と胡風がいるといった如きそれである。最も陰険な例では、同じ新聞が去年の冬だか今年の春だったかに、ギザギザの枠で囲んだ重要記事を蔵せて、私か南京に投降しようとしている、間に立って斡旋しているのは胡風で、早いか遅いかは、彼の腕一つにかかっていると書いた。さらに私は、自分以外のことも見た。ある青年は、「裏切者」といわれたために、すべての友人から見限られ、とうとう行くところもなくなって街をふらつくようになり、ついに逮捕されて、酷刑に処せられてしまったではないか? またある青年は、やはり同じように「裏切者」と中傷されながらも、英雄的な闘いに参加したために、現在、蘇州の獄中にあって、生死のほどもわからぬではないか? この二人の青年は、彼らが、穆木天のように堂々たる懺悔の文章を書いたこともないし、田漢のように南京で自分の芝居を派手に上演したこともないのを、事実をもって証明したのである。同時に、私はまた人物をも見ている。たとい胡風が信用できないとしても、この私という人間については、私自身は全面的に信用できると思っており、私か胡風を通じて甫京に条件を持ちかけたことは絶対にない。そのため、私はむしろ、胡風が剛直で、人の恨みは買いやすいが、接近してもよい人間だと知った。そして周起応の手合のように、簡単に人を中傷するような青年に対して、逆に疑いを懐き、ないしは憎しみすら持つようにたった。むろん、周起応にも、別に優れた点かあるかも知れない。後には今とは変って、本当の章命家になるかも知れない。胡風にしても、むろん欠点はある。神経質をこと、細かすぎること、および理論の点てこだわる傾向かおること、文章を大衆的に書こうとしないことなどがそうである。しかし、彼は明らかに有為の青年であり、いかなる抗日に反対する運動にも参加したことがないし、統一戦線に反対したこともない。これはたとい徐懋庸などの連中がいかに頭をしぼってみたところで、抹殺できない事実である。
黄源については、私は、きわめて向上心のある、真面目な翻訳者であると思っている。『訳文』という適切有用な雑誌およびその他いくつかの翻訳書がそれを証明している。巴金は、情熱的な、進歩思想をもった作家で、指折りの好作家の一人とされている作家である。もとより彼には「アナーキスト」の称かあるが、彼は決して我々の運動に反対していないし、文芸工作者連名の戦闘的な宣言にも名を列ねている。黄源も署名している。こういう翻訳者や作家が抗日の統一戦線へ参加することは、我々の歓迎するところである。徐懋庸らがなぜ彼らを「卑劣」だというのか、私には実際わからない。『訳文』の存在が眼障りになるためだろうか? スペインの「アナーキスト」の革命破壊まで、巴金に責任を負わせるつもりなのだろうか?
さらにまた、最近の中国ではもうごく当たり前のこととなっているが、実際には「助長」しているだけでなく、正に、「悪劣な傾向」そのものとなっていることは、何の根拠もなく、相手にきわめてたちのわるい、悪名を加えることである。例えば、徐懋庸が、胡風を「ごまかし」といい、黄源を「おベっか」といった如き、みなそうである。田漢、周起応らが、胡風を「裏切者」といい、結局そうでなかったのは、彼らの頭がどうかしていたからである。胡風が、実際はそうでないのに、詐って「裏切者」のふりをし、彼らにでたらめをいわせるように仕向けたというわけでは、決してない。「社会日報」が、胡風は私を引っ張って転向させようとしたといい、今日になっても転向しないのは、それが寄稿者の故意の中傷であったからであって、胡風が実際には引帳らなかったのに、詐って引張ったふりをし、記者にデマを飛ばすように仕向けたというわけでは、決してない。胡風は決して「愛すべき左翼ぶり」といったものではないが、彼の私敵は、実に「恐るべき左翼ぶり」であると思う。黄源は、いまだかつて私を持ちあげるような文章を書いたこともなければ、私のために伝記を書いてくれたこともない。ただ月刊雑誌を出すことにもっぱら打ちこんでおり、世間の評判も悪くはない。それがなんて「おべっか」であったり、私への「忠義だて」なのだろう『訳文』が私の個人財産だとでもいうのだろうか? 黄源の「傅東華や鄭振鐸の門下を走りまわっていた時のおべんちゃらぶり」を、徐懋庸は多分御聖勅ででも知ったのであろうが、私は知らない。また見たこともない。彼と私との往来の際には、「おベんちゃらぶり」は見えない。それに徐懋庸が同席したことは一度もない。彼が何を証拠に、傅、鄭の門下でのおべんちゃらと「何ら変わることがない」と断定したのか、私には合点がゆかない。
この場合は、私もつまり証人なわけだが、一度も実際を目撃していない徐懋庸が、現場に居わせだ当事者である私に向ってこうした口から出まかせの中傷誹謗をなすにいたっては、まことに横暴も極まれりというべきである。これこそ「現在の基本的な政策」を「理解」したからであるというのであろうか?「全世界の場合も同様」なのであろうか? そうだとすれば、全くこれは驚くべきことだ!
その実、「現在の基木的な政策には、決してこんな風に一分の隙もない網で囲まれたものではない。「抗日」でさえあれば、戦友なのではないか?「ごまかし」であろうと、「おべっか」であろうと構わないではないか? なぜ、あくまで胡風の文章を撃滅し、黄源の『訳文』」を打倒しなければならないのか? その内容がすべて「二十一力条」や「文化侵略」であるとでもいうのか? まず第一に掃討すべきものは、むしろ、大旗をひろげて虎の皮にし、それでわが身を包んで、人を嚇しつけたり、ちょっと気に入らぬと勢(!)を頼んで人を罪に、しかも恐るべき重い罪に陥れる横暴なやからなのである。むろん、戦線は成立するだろう。しかしこんな嚇かしでできた戦線では、戦闘はおぼつかない。前にすでにこういう前車があっだのに、その轍を踏む後車の幽霊は、死んでも悟らず、今曰、我々の面前に、徐懋庸という肉身にとりついて姿を現わしたのだ。
左連結成の前後において、若干のいわゆる革命作家は、実際には落ちぶれた旧家の放感息予てあった。彼にも不平があり、反抗もあり、闘争もあったが、往々にしてそれは没落家庭の嫁と姑のいさかい、弟と兄嫁とのいさかいのやりロを、文壇に持ちこんだものに過ぎなかった。ぶつぶつ少言をいったり、ぼそぼそ蔭口をきいたりするだけで、決して大局に眼をつけることはなかった。この衣鉢は、今日もなお絶えることなく引き継がれている。例えば、私と茅盾、郭沫若の二先生とは、一方は相識、一方は面識がなく、一方とはまだ衝突したことはないが、一方とはかつて文章でやり合ったことがあったとはいえ、大きな戦闘ではいずれも同一の目標に立ち向い、個人的な恩怨を日夜根にもつようなことは決してなかった。しかるに小型新聞は、魯が茅にくらべてどうの、郭が魯にどうしたのと、まるで我々が王座の争奪、衣鉢の取り合いでもしている
かのように書きたてて喜んでいた。『死せる魂』にしても『訳文』の廃刊後、『世界文庫』にも第一部を完載したのであったが、小型新聞は、「鄭振鐸が『死せる魂』を腰斬に処した」とか、魯迅が怒って翻訳を中止したとか書き立てた、これこそ、正に悪劣な傾向であり、デマをまいて文芸界の力を分散させようとする、「裏切者」の行為に近いものである。しかし、これまた正に没落文学者の最後の道でもある。
私の見るところでは、徐懋庸も正にぶつぶつぼそぼその作家であり、小型新聞と関係をもっているが、まだ最後の道まで堕ちてはいな。もっとも、すでに良い加減バカになっているが(さもなくば、倣慢だ)。例えば、彼は手紙の中で、「彼らの言行に打撃を加えるのは、何の造作もないことではありますが、ただ先生が彼らの後訂になっておられ、……それで実際的な解決の上にも、文章による闘争の上にも、絶大の困難を感じているわけであります」といっているのは、修身の面から、胡風のごまかし、黄源のおべっかに打撃を加えようというのか、それとも文章の面から、胡風の論文と、黄源の『訳文』に打撃を加えようというのか?―――もっとも、こんなことを私は別に知ろうとは思わない―――私かききたいのは、なぜ私か彼らの友人であると、「打撃」を加えるのに「絶大の困難を感ずる」のかということである。デマを飛ばして騒ぎをやらかすのは、絶対に御免こうむりたいが、もし徐懋庸らが堂々と正論を吐いたとすれば、私一人で彼らに対し天下の耳目を掩ってしまうことが果してできるものだろうか? しかも、「実際的な解決」とは何のことか?流刑か、それとも斬首か? この「統一戦線」というお題目の下では、こんな風に人の罪をでっち上げ、権力をおもちゃにすることができるのか? 私は、「国防文学」に大作品が生れることを心から祈っている。生れてくれないことには、それまた私かこの半年来、「悪劣な傾向を助長している」罪だということにされるかも知れないからである。
最後に、徐懋庸は、なお私に 「スターリン伝」を精読するようにといっている。よろしい、私は精読しよう。もしまだ生きていられるなら、私はもちろん学習をつづけたい。だが、私は最後に、彼自身もさらに繰り返し精読してもらいたいと思う。というのは、彼は翻訳した時に、何一つ得たものがないらしく、実際改めて精読する必要があるからである。さもなくば、一枚の旗を掴みあげただけで、人より一段偉くなったつもりになり、奴隷の監督よろしく、鞭を鳴らすことをもって唯一の業績とするようになってしまう―――それではもうつける薬もなく、中国にとって何の役にも立
だないばかりか、むしろ有害でさえあるからである。
(八月三日――六日)
魯迅選集 第十二巻 岩波書店版
1935年記 魯迅全集参照の事
<本篇最初发表于一九三六年八月《作家》月刊第一卷第五期。>
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「徐懋庸に答え、併せて抗日統一戦線の問題について」について
http://gongitune.exblog.jp/26260016/
2016-12-23T16:30:44+09:00
2016-12-23T16:30:44+09:00
2016-12-23T16:30:44+09:00
Ygongitune
ゴンギツネの回想
酷い年だった。
静かに読んでいる一冊の本。
今という時代を、鮮明に見せてくれるような一文。
読み終えた。
2016年12月の末
徐懋庸に答え、併せて抗日統一戦線の問題について
魯迅先生
御病気はもうよくなられましたでしょうか。案じております。先生の御発病以来、それに文芸界のごたごたもあって、再び親しくお話を承ることができなくなりました。それを思うといつも悲しい気持がいたします。
私はこのたび、生活の困難と、身体の衰弱とのために、上海を離れなければならなくなり、田舎へ行って、少し金になる翻訳でもやってから、また上海に出て来ようと思っております。この機会に、しばらく上海「文壇」の局外者として、すべての問題を仔細に検討してみたら、もっとはっきりして来るかも知れません。
目下のところ、私には、先生の最近半年来の言行が、無意識のうちに悪劣な傾向を助長しているように感じられてなりません。胡風の性質はごまかしであり、黄源の行為はおべっかでありますのに、先生は深く察せず、永遠に彼らの私有物にされ、偶像然として、大衆を眩惑するために利用されていらっしやいます。そのため、彼らの野心から出発した分派活動は、ついに収拾のつかぬところにまで来てしまいました。胡風たちの行動は、明らかに私心から出へ極端なセクト活動であり、彼らの理論は、前後矛盾し、誤謬百出しております。「民族革命戦争の大衆文学」というスローガンにしても、最初は胡風が「国防文学」と対立させるために提起したものでありますが、後になって一つは総括的なもので、一つは附属的なものであるといったり、さらにまた後には、一つは左翼文学の発展としての現段階におけるスローガンであるといったりする有様です。こうふらふらなことでは、いくら先生にしても彼らの説の辻褄を合わせておやりになることはできないでしょう。彼らの言行に打撃を加える事は、何の造作もないことではありますが、ただ先生が彼らの後盾になっておられ、誰もが先生を敬愛しておりますため、実際的な解決の上にも、文章による闘争の上にも、絶大の困難を感じているわけであります。
先生の御本意は、私よくわかっております。先生は統一戦線に参加している左翼の戦友が、本来の立場を放棄することを何より恐れておいでになり、そして胡風たちが表面なお愛すべき左翼ぶりであるのを御覧になって、それで彼らに賛成していらっしやるのです。しかし私は先生に申し上げたい。これは先生が現在の基本的な政策を理解しておられないためであります。現在の統一戦線は―――中国の場合も全世界の場合も同様ですが―――もちろんプロを主体としてはおりますが。それが主体たり得るのは、決してその名目とか、その特味地位や歴史によってではなくて、その現実把握の正確さと闘争能力の巨大さとによるものであります。したがって、客観的には、プロを主体とすることは当然でありますが、客観的には、プロは、鮮明な徽章をつけるべきではない。仕事によってでなしに、単に特殊な資格によって指導権を要求し、他の階級の戦友を逃げ出させるべきではありません。故に、目下のところ、連合戦線の中に左翼的なスローガンを持もこむことは、誤りであり、連合戦線に害を与えることになる心です。ですから、先生が最近発表された『病中、客の問に答えて』で「民族革命戦争の大衆文学」をプロ文学の現在における一発展であるとなし、またこれを統一戦線の総スローガンとすべきであるといっておられるのは、問違いであります。
それに、「文芸家協会」に参加している「戦友」は、必ずしも先生が疑っておられるように、全部が右傾堕落しているわけではありません。まして先生の左右に集まっている「戦友」の中には、巴金や黄源のようか手合まで含まれている位ですから、まさか先生は「文芸家協会」に参加している者全部を、どれも巴金や黄源に劣るとお思いになっているわけでもあるまいと思います。私は新問雑誌によって、フランス、スペイン両国の「アナーキスト」の反動の、連合戦線破壊が、トロツキー派と異ならぬことを知っています。中国の「アナーキスト」の行為ときては、もっと卑劣です。黄源はまるっきり思想をもたず、名士を持ちあげることだけで食っている奴です。
以前、傅東華や鄭振鐸の門下を走りまわっていた頃のおべんちゃら振りは、今日先生に対する忠義ぶリと何ら変ることはありません。先生がこういった手合と手を組み、多数の人と合作しようとなさらない理由が、どうにも私には理解できないのです。
やっている事を見ずに人物だけを見るというのが、この半年来の先生の誤りの原因ではないかと、私には感ぜられます。それに、先生の人を見る眼も、確
かではありません。例えば、私個人のことにいたしましても、むろんいくらも欠点がございます。しかし先生が私の字が下手くそなことを取り上げて大きな欠点であるとしておられるのは、私には実に滑稽に思われます。(私か何で邱韻鐸)の三字を、わざと「鄭振鐸」に似せて書くようなことを致しましょう? まさか鄭振鐸は先生のお気に入りというわけではありますまい?)こんな小さなことのために、急にひとりの人問を千里もはなして寄せつけないとは実に私は正しくないと思います。
私は、今日、上海を去ろうとしています。その支度で落ち着かず、あまり多くは書けません。いや、もう多すぎるほど書いてしまったかも知れませんが。以上いろいろ申し述べましたが、これは決して先生を攻撃しようという下心あってのことではありません。先生にさまざまの事を仔細に考えていただきたいと心から希望していればこそであります。
拙駅『スターリン伝』が問もたく出版されます。出版されましたら一本献呈いたします。この本は是非とも先生に詳しく見ていただき、原意に対しても訳文に対しても、御批評を賜わりたく存じております。
御全快のほど心から祈っております。
八月一日
懋庸拝
以上は、徐懋庸が私に寄越した手紙である。私か彼の同意を得ないでここに発表したのは、その中のすべてが私への教訓であり他の者への攻撃であって、発表しても、決して彼の威厳を傷つけるようなことはなく、しかも、正に私か発表するのを予想して書かれた作品であるかも知れないからである。とはいえ、むろん、人々もこれによって、この発信者が多少とも「悪劣」な青年であることを見てとらぬわけにはいかなくなるであろう。
ただ、私は一つか願いがある。それは、巴金、黄源、胡風の諸先生が、徐懋庸のやり方を真似しないで欲しいということである。というのは、この手紙の中に、彼らを攻撃してあるからといって、こちらも眼には眼を、歯には歯をもって報いたりするのは、まんまと彼のワナにひっかかるようなものであるからだ。国難が頭上に追っている今日、昼間は正々堂々とした口をききながら、夜になると離間、挑撥、分裂などの策謀を進めているのは、正にこういう手合ではないだろうか? この手紙は計画的なものであり、「文芸家協会」に加入していない人々に対する彼らの新たなる挑戦である。これらの人々がこれに応戦したならば、彼らはただちに「連合戦線破壊」の罪名、「漢奸」の罪名をかぶせてやろうと考えているのである。しかし、我々はやらない。我々は、筆鋒を幾人かの特定の個人に向けようなどとは決して思わない。「先ず内を安んじ、後に外を攘う」というのは、我々のそり方ではない。
ただ、私はここで少しく言っておきたいことがある。まず第一に、私の抗日統一戦線に対する態度である。もっとも、私はすでにいろいろなところで述べている。ところが徐懋庸らは見ようともしないらしく、ひたすら私に噛みついて、あくまで私か「統一戦線を破壊する」と誣い、あくまで私か「現在の基本的な政策を理解していない」といって、私に教訓を垂れようとしているのである。私は徐懋庸たちがいったいどんな「基本的な政策」を持っているものやら知らない。(彼らの基本政策は、私に噛みつこうとすることではないだろうか?)しかし、中国の現下の革命的政党(中国共産党)が、全人民に提出した抗日統一戦線の政策を、私は見た。私は支持する。私は無条件でこの戦線に参加する。その理由は、私が一個の作家であるだけではなく、一個の中国人であり、それ故に、この政策は私にとって極めて正確であると認められるからである。私がこの戦線に加入するといっても、もちろん、私か使うのはやはり一本の筆であり、私かやることはやはり文章を書いたり、書物を訳したりすることである。この筆が役に立たない時が来たら、ほかの武器を使うだろうが、その時も決して徐懋庸らの手合におくれをとるようなことはないと私は自ら信じている。
次に。私の文芸界統一戦線に対する態度である。私は、一切の文学者は、いかなる派別の文学者も、抗日スローガンの下に統一せよという主張に賛成する。
私もかつて、かかる統一的団休の組織についての自分の意見を提出したことがあったが、それらの意見は、もちろん若干のいわゆる「指導者」によって打ち殺され、さっそく逆に天外から飛んで来たかのように、「統一戦線破壊」の罪名をおっかぶせられた。これがまず、私に「文芸家協会」に加入することをしばらく見合わせるようにさせた。私はしばらく待って、彼らが結局どんなことをやるのか見てやろうと思ったからである。私は実際、その時、それらの自称「指導者」および徐懋庸式の青年にいくらか疑いをもったというのは、私の経験によれば、ああいう表面は「革命」の顔つきを粧いながら、軽々しく他人を「裏切者」とか、「反革命」とか、「トロツキー派」とか、ないしは「漢奸」なぞと中傷する者は、大抵まともな人間ではないからである。彼らが巧妙に革命的民族の力を圧殺し、革命的大衆の利益を顧みずに、ひたすら革命の名を借りて私利を図るからである。卒直にいえば、彼らは敵のまわしものではないだろうかと疑ったことさえあった。私は、しばらく無益な危険を避け、しばらく彼らの指揮に従わない方がよい、と考えた。もちろん、彼らの結局の真相を事実が証明してくれるにちがいないから、私は決して彼らがどんな人問であるか断定を下そうとは思わない。けれども、もし彼らの真の志が革命と民族とにあって、単に料簡がちがい、観念が正確でなく、やり方が拙劣であるだけなのだとしたら、私は、彼らが自分で改める必要が大いにあると思う。私の「文芸家協会」に対する態度についていえば、私はそれが抗日の作家団体であり、中には徐懋庸式の青年が混っているとはいえ、一方また新しい人たちも相当含まれていることを認めている。だが、「文芸家協会」ができたからといって、ただちに文芸界の統一戦線が完成したと考えることはできない。それにはまだまだ程遠い。まだまだあらゆる派別の文芸家を一つの気持に結びつけてはいない。その原因は、「文芸家協会」にまだまだ非常に濃厚なセクト主義とギルド的状熊が含まれているからである。ほかは見なくとも、単にその規約をみても、加入者の資格についての制限が厳しすぎる。すなわち、会員は入会費一円と年二円の会費を納めなければならぬということだけでも、「作家閥」の傾向を表わしており、抗日「人民式」ではない。理論の面では、『文学界』創刊号に発表された「連合問題」と「国防文学」に関する文章の如きは、基本的にはセクト主義的である、ある筆者は、私か一九三〇年にしゃべった言葉を引用し、かつそれを出発点としている。そのため、二言目にはいかなる派別の作家も迎合するといいながら、やはり自分の好みに合わせて加入の制限や条件を定めてしまったのである。これは、筆者が時代を忘れているのである。私は文芸家の抗日問題の連合は、無条件であると思う。漢奸でない限り、抗日を希望し、もしくは賛成する限り、兄よ妹であろうと、なりけりあらんやであろうと、いっさい、構わないと思う。だが文学の問題の上では、我々はやはり互いに批判することができるのである。この筆者はまた、フランスの人民戦線を例に引いている。しかしこれも筆者が国を忘れてしまっているのだと、私は思う。なぜなら、我々の抗日人民統一戦線は、フランスの人民戦線より遥かに広汎なものであるからである。もう一人の筆者は、「国防文学」を解釈して「国防文学」は正確な創作方法を持つべきであるといい、また、今日では「国防文学」でなければ「漢奸文学」であるともいって、「国防文学」というスローガン一つで作家を統一しようとし、またあらかじめ「漢奸文学」という言葉を用意しておいて後日他人を批評する道具としようとしている。これは実に出色のセクト主義的理論である。私は、作家は「抗日の旗、もしくは「国防」の下に連合よというべきであって、作家は「国防文学」のスローガンの下に連合せよということはできないと思う。というのは、若干の作家は「国防を主題とする」作品を書かなくともやはり各方面から抗日の連合戦線に参加できるのであって、たとい私のように『文芸家協会』に加入しないとしても、必ずしも「漢奸」とは限らないからである。「国防文学」は一切の文学を包括することができない。なぜなら「国防文学」と「漢奸文学」
の外に、前者でもなければ後者でもない文学がたしかにあるからである。もっとも、『紅楼夢』や『子夜』『阿Q正伝』が「国防文学」あるいは「漢奸文学」であることを証明する力が彼らにあれば別であるが。そういう文学は存在している。だがそれは、杜衡、韓侍桁、楊邨人などといった連中の「第三種文学」いかいうものではない。それ故、私は、郭沫若先生の「国防文芸は広義の愛国主義の文学である」および「国防文芸は作家関係問の標幟であって、作品原則上の標幟ではない」という意見に深く同意する。私は、「文芸家協会」がその理論上および行動上のセクト主義とギルド的な現象を克服し、制限をもっとゆるめるべきこと、同時に理想としては、いわゆる『指導権』をほんとうに真面目に仕事のできる作家や青年たちの手に移し、徐懋庸などのような人間だけに請負わせないように、提議する。私個人が加入するかしないかは、決して重要なことではない。
次に、私と「民族革命戦争の大衆文学」というスローガンとの関係についてである。徐懋庸といった連中のセクト主義は、このスローガンに対する能度の上にも現われている。彼らは、これは「新異を標榜」したものであるとなし、さらに「国防文学」に対抗するものであるとする。彼らがここまでセクト化しようとは、全く私の思いも寄らぬことであった。「民族革命戦争の大衆文学」というスローガンが「漢奸」のスローガンでない限り、それは抗日の一つの力である。どうしでこれが「新異を標榜」することになるのか? これが「国防文学」に対抗するものだということを、君たちはどこから発見したのだ? 友軍の救援を拒絶し、暗々のうちに抗日の力を謀殺しているのは、君たち自身の「白衣秀士」王倫よりも更に狭隘なこうした精神なのだ。私は、抗日戦線においては、いかなる抗日の力も歓迎すべきであり、同時に文学においても、各人が新いい意見を提出し討論するのを許すべきであって、「新異を標榜」することも何なら恐れる要はない、と思う。これは商人の専売とは違う。現に君たちが先に提出した「国防文学」というスローガンにしても、別に南京政府あるいは「ソヴエト」政府(中国共産党を指す)に登録したわけではなかった。
しかるに、現在の文壇に、すでに「国防文学」印と「民族革命戦争の大衆文学」印の二軒があるようにみえるのは、その責任は徐懋庸たちが負うべきものである。私が、病中に訪問者の質問に答えた一文では、決してそれらを二軒に見なしてはいない。もちろん、私は、「民族革命戦争の大衆文学」というスローガンの間違いないこと、およびそれの「国防文学」というスローガンとの関係についても一言しなければならない。――-まず断っておかねばならないのは、前者のスローガンが、胡風の提出したものではないということである。胡風が文章を一篇書いたことは事実であるが、それは私が彼に頼んで書いてもらったものであり、彼の文章が説明不十分であったことも事実である。このスローガンはまた、私一個人が「新異を標榜」したものではなく、何人かで話しあった結果作ったものであって、茅盾先生は、話し合いに参加した一人である。郭沫若先生は、遠く日本におり、スパイに監視されているので、相談の手紙を出すことすらできなかった。残念なことはただ、徐懋庸たちを招請して討議に参加してもらわなかったことである。だが、問題は、このスローガンが誰によって提出されたかということではなく、それに誤りがあるか否かということである。もしそれが、これまでプロ革命文学に囚われていた左翼作家たちを刺激して抗日民族革命戦争の前線へ馳せ参じさせるため、「国防文学」という名称自体の文学思想の意義上の不明瞭を補うため、および「国防文学」という名称に注入だれた若干の不正確な意見を是正するため、そうした理由のために提出されたのだとすれば、それは正当なものであり、正確なものである。もし、人が足の裏でものを考えず、少しく頭を使ったならば、でまかせに「新異を標膀する」といっただけで片附けてしまうことはできないはずである。「民族革命戦争の大衆
文学」という名称は、それ自休、「国防文学」という名称よりも、意義がより明確であり、より深刻であり、より内容がある。「民族革命戦争の大衆文学」は、主として、これまで左翼といわれてきた進歩的な作家たちに対して詠唱され、これらの作家たちが努力して前進するよう希望したものである。かかる意義からして。連合戦線が進行しつつある現在、徐懋庸がかかるスローガンを提出することはできないというのは、でたらめだ!「民族革命戦争の大衆文学」はまた、一般もしくは各派の作家に対しても提唱され、希望されるものであり、彼らも努力して前進するよう希望している。かかる意義からして、一般もしくは各派の作家に対してかかるスローガンを提出すべきではないというのも、でたらめだ! だが、これは抗日統一戦線の基準ではなく、私が「これを統一戦線の総スローガンとすべきであるといった」と徐懋庸がいっているのは、一層で
たらめだ! 私は、徐懋庸がいったい私の文章を読んだのかどうか問きたい。人がもし私の文章を読み、もし聶紺弩らが誤りを犯したように、徐懋庸たちが「国防文学」を説明したやり方でこのスローガンを解釈するようなことをしなければ、このスローガンはセクト主義あるいは閉鎖主義とは絶対に関係ない。ここにいう「大衆」とは、これまでの「群衆」、「民衆」という意味に解しても差支えない。いわんや今日においては、もちろん「人民大衆」という意味もある。私が「国防文学」は我々の目下の文学運動の具休的なスローガンの一つであるといったのは、この「国防文学」というスローガンが、すこぶる通俗的で、すでに多くの人々の耳になじみ、それは我々の政治的、文学的な影響を押し拡めることができる上に、さらにそれは、作家は国防の旗の下に連合せよということ、広義の愛国主義の文学という風にも解釈できるからである。したがって、それは、たとい正しくない解釈をされたことかあり、それ自体の意味にも欠陥かおるにしても、依然として存在して然るべきである。というのは、その存在は、抗日運動に有益だからである。私は、この二つのスローガンが並存するのに、辛人先生の「時期性」と「時候性」というようないい方をずる必要はないと思っているし、まして人々が「民族革命戦争の大衆文学」にさまざまの制限を加えることに賛成できない。もし、どうしても「国防文学」の方が先に提出
されたものであり、この方が正統であると思いたければ、正統権を正統でありたいと思っている人たちに譲り渡しても一向かまわない。問題はスローガンの争いではなく、実行にあるからだ。スローガンを叫び、正統争いに憂身をやつすのは、もとよりそれだけで「文章」となるし、いささか原稿料も取れ、それで食って行くこともできるというものだが、ただそんなことばかりやっているのは、総局、将来の大計ではない。
<この稿つづく>
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魯迅の言葉 その1
http://gongitune.exblog.jp/26243048/
2016-12-17T07:33:42+09:00
2016-12-17T07:33:42+09:00
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Ygongitune
ゴンギツネの回想
血沃中原肥勁草
寒凝大地発赤華
英推多故謀夫病
涙漉崇陵噪暮鴉
無題
血は中原に沃ぎて勁草を肥やし、
寒は大地に凝りて春華を発く。
英雄は故多く謀夫は病む、
涙は崇陵に灑ぎ暮鴉噪ぐ。
一九三二年一月二十三日、高良富子人に書いて贈ったもの。
革命人氏の犠牲の血は中国の土壌を肥やして一層強い革命の
草を育てあげるだろう。反動政府の圧迫によって堅く凍りつ
いた大地から、美しい花が開きでる春の到来も間近い。一方、
南京政府は内部闘争に明け暮れ、英雄(蒋介石)は故郷(浙江
奉化)に帰り、汪精衛は上海で病に倒れ、かくて行政院長孫科
の手では収拾がつかなくなって、中山陵に行って涙を流した。
まるで夕方カラスか啼きさわぐようだテンヤワンヤの有様だ。
魯迅選集 12巻 松枝茂夫 訳
岩波書店
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第三回 中野重治作 小説 甲乙丙丁について
http://gongitune.exblog.jp/26223233/
2016-12-13T06:28:00+09:00
2016-12-13T06:27:33+09:00
2016-12-13T06:27:33+09:00
Ygongitune
ゴンギツネの回想
連続 第3回
おわりに
中野は『甲乙丙丁』の中で、宮本修正主義集団の持っている腐敗したもの、堕落したもの、醜いものについて、厳密に鋭く暴露している。それは宮本たちをぎゅうという目にあわすほど鋭く暴露している。宮本の個人主義、ごりごりのエゴイズム、出世主義、権勢欲、偽善ぶりを非常に鋭く暴露している。
あれこれの言辞をろうして、革命的にみせかけるずるがしこさを暴露している。また、宮本修正主義集団の中枢を構成するさまざまな茶坊主、権力亡者たちの小役人的な官僚主義、アメリカナイズされたふやけたスマートさ、裏切りと暗躍、不誠実と歴史の偽造、人民をあざむく宮本たちの浅ましさ、実際の入民斗争からかけ離れていく小ブルジョア右翼敗走主義そんな面を鮮明にいきいきと描いている。中野はそれを鋭く告発している。中野が、野坂たちを間題にしないで、主として宮本と蔵原に批判をむけ、それを中心にすえている点は正しくもあるし、本質にせまる可能性をもっている。日本の修正主義は、まさしく宮本に集中し、発生し発展しているのであってこれが日本の修正主義の本質であり本流であるからである。宮本は日本の党が創立されて以来、最大の裏切り者であり、反革命修正主義者である。それを中野は暴露している。しかし、どうしてもある部分は不徹底であり、ある部分は見当はずれであり、ある部分は誤っている。これはいったいどこからくるか。宮本修正主義集団の暴露を、中野は小ブルジョア・インテリゲンチャの立場から、小ブルジョア・ヒューマニズムの立揚からやっているので、宮本の非人間性、ブルジョア政治家ぶり、官僚主義、民主的手続きの蹂躙や党内民主主義の破壊というふうにしか暴露していない。階級の政治の立場からつかんでいないので、宮本を、反マルクス・レーニン主義者とじて、反革命修正主義者として暴露することができない。だから読む者をして、批判の不徹底さを感じさせるし、見当はずれも多いし、またある人人をして、マルクス・レーニン主義党の否定、反共的気分をさそいかねない。中野は、事物をたん念に、妥協なく追求して行く一面があるが、また、もう一面、事物を矛盾するものとして相対立するものを一つにして見る形而上学の観点がある。たとえば、国際論争についても、是非をはっきりさせるのではなく、「ホーチミンの線で行く」というように、あいまいに気分や雰囲気でつかんでいる。共産主義運動内部のマルクス・レーニン主義と修正主義との対立と斗争として見るのではなく、また民族解放斗争にたいするマルクス・レーニン主義の革命的原則と修正主義路線との斗争というように事物を見ていくのではない態度である。これでは革命と反革命の境界線がなくなってしまう。『甲乙丙丁』は、代々木とそのまわりの俗流的政治家たちの、俗悪な非人間的な面については細緻(ち)をきわめて暴露しているが階級と階級の政治、マルクス・レーニン主義の革命については、誤った立場にたっている。自分の頭の中で考える「政治」については厳密であるが、実際の階級斗争についてはおよそ粗雑であり、代々木の本部貴族にたいして身を挺して格斗はしているが、人民の立場から、人民の根本的利益を裏切る者として暴露することが弱い。くり返しいうが、戦前の中野は、芸術の唯一の源泉である人民の生活と斗争に近づこうとしているが、戦後の中野の文学と生活は、人民のふところから離れてしまっている。そのため、戦前の活勤にふれている場所では、いきいきした描写があるのに、戦後は手続きばかり論じて人人を感動させないし階級的な人民斗争の美しい場面が全然ない。革命的共産主義者と革命的人民が全然登場しない。宮本批判の主観的動機の正統性が面白さというところに止まっていて、読む人にたいして修正主義の罪悪にたいする斗争を鼓舞激励するという効果がない。戦後のプロレタリア文学運動にたいする批判的態度が弱いため、運動の解体と同時に現われる日本軍国主義の復活にたいして正しい立場で対処することができない、等等がある。この日本軍国主義の復活という問題についても戦前の軍国主義との間には同一性と差異性がある。戦前の天皇制は日本人民にたいするファッショ的な支配とアジアの国国と人民にたいする野ばんな侵略をやったが、戦後はアメリカ帝国主義のもとで売国反動派がその指図にもとずいて、ブルジョ民主主義のやり方で日本人民を支配し、アジアにたいしてアメリカの肩代わりとなって侵略しょうとしている。
宮本は米日反動のお先棒をかついで、「日本軍国主義はまだ復活していない」とか「自主防衛」を叫ぴ、佐藤のちょうちんを持ち、およそ共産主義とは縁もゆかりもないものに変質してしまっている。日本軍国主義は宮本たちを抱きこんで復活してきているのである。このすでに復活した日本軍国主義に反対して、プロレタリア文学を志すものと一切の進歩的文学者は立ちあがらなければならない。中野は、軍国主義復活の尖兵となっている宮本とその追随者どもを芸術の武器をもってもっとも鋭く暴露しなければならない。
中野は『甲乙丙丁』の野間文学賞受賞会で、「これからも政治活動をつづけて行く」と発言した。
もし中野が、マルクス・レーニン主義の政治、革命の政治、人民の政治をやるのであれば、日本と世界の革命運動から学ばなければならず、革命文芸を作ろうとすればプロレタリアア階級と農民、都市勤労人民とインテリゲンチャを組織する文学を生み出さなければなら
ない。米日反動派に反対する都市農村の貧困人民、半プロレタリア階級と小経営者の広大な大衆全体を指導するプロレタリア階級のすばらしい生活と斗争を対置させなければ、宮本修正主義集団を本質的に階級的に暴露し、打倒することはできない。革命的進歩的文学・芸術家は、革命の前にあっても革命のさ中にあっても、米日反動を打ち倒し彼らから自分の手に権力を奪い取るという革命的人民の立場から、プロレタリア文学を見、考えねばならない。労働者の中の偉大な奇跡を作り出す、歴史を作り出す、無数の英雄を、その典型を描かねばならぬ。だが、口先でそういうだけでは不十分であり、そのためには自己の立脚点を革命的人民の側に移しかえ、芸術家の立揚を移しかえ、世界観の改造、創造と源泉との関係の問題を正しく解決しなければならない。敵の権力を憎まずにはおれない、打ち倒さずにはおれないプロレタリア階級の戦斗性、組織性、団結性を学ばねば、プロレタリア文芸は作り得ない。
これらをなしとげてこそ人民に奉仕する文芸であり、いく千万人民をふるい立たせ、団結させるプロレタリア階級の文芸である。
『甲乙丙丁』は、人人を米日反動に反対する斗争にふるい立たせる革命文芸とはおよそ縁遠い。
政治と芸術関係の間題では、政治的立場が第一であり、政治的立場が正しくなければ、それは価値をもつ事はできない。
小説『甲乙丙丁』の最大の弱点は、宮本を「北京より」などと見ていることにもっとも象徴的にあらわれている。六〇年代に入ってキューバ事件が起き、アラプの民族解放斗争にたいする評価の聞題が起き、ベトナム支援の問題をめぐって、二つの路線の斗争が激化しており、中国共産党とソ連現代修正主義のあいだの公開論争はすでに六三年からそれこそ食うか食われるかの大斗争としてはじまっていた。日本の党内にあっても、戦後マルクス・レーニン主義者と修正主義者との斗争はずっと続いていた。六〇年の「安保」斗争をめぐって、それこそ大斗争となって発展してきていた。日本のブロレタリア階級は、どの道を歩むのか、日本の共産主義者はマルクス・レーニン主義の革命的原則をまもるのかどうか、日本革命をマルクス・レーニン主義の革命的原則にもとづいてやるのか修正主にころげ落ちるのか、これは日本のブロレタリア陥級と共産主義者にとって死活の大問題であった。
いやしくも、宮本を批判しようとした中野が、この時期の宮本を「北京より」などと見たということは、政治的にも芸術的にも、どういうことになるのであろうか。宮本は修正主義者なのであって、「北京より」でも何でもなく、国際的な大ペテン師であり、反革命分子である。宮本は世界でも有数な反中国分子であり、反毛沢東思想であることは、今や三歳の童子でも知っている。これはすでに歴史があまねく証明していることであって、中野がどう説明しようが、どういいわけをしようが、動かすことはできない。かりにもし中野がどのような政治的立場に立っていたにせよ、この時期の宮本を「北京より」などと見る中野の目、洞察力の粗雑さはいったいどこからくるのか。「共産主義者」でもあり「中央委員」でもあつた政治家中野は、社会主義中国や毛沢東思想をどのように見なければならなかったか。全世界の革命と反革命の論戦にどのような態度を取らねばならなかったのか。ここに一つのもっとも重要な間題がある。
日本の真の共産主義者は、マルクス.レーニン主義の革命原則、プロレタリア革命とプロレタリア独裁、暴力革命の原則を守る中国共産党と毛沢東思想を断固として支持しなくてはならなかったはずだ。よしんばそれができなかったとしても、宮本を「北京より」などと見る芸術家中野は、いったい何だろう?たとえ中野が政治的にどのような立場に立っていたとしても、宮本は極度の反中国分子であり、反毛沢東思想である。芸術家中野は、それは見えなければならないし、それが見えない芸術家というのはどういう芸術家であろうか?政治的には王党派であったバルザックは、芸術家としては、新興のブルジョア階級が王党 派を打ち破って勝利してゆく必然性を見抜いていたし、それを予見的にいきいと描いている。正真正銘の、世界にも類の少ない、骨のずいからの反中国分子宮本を「北京より」などと中野は、大声をあげてわめきたてている。西に向って歩いているものを東へ向って歩いていると書いているのだ。
芸術家中野の目は節穴であろうか?。芸術家としての根性を、中野はたたき直さなければならない。人民の斗争の烈火の中に入ってやきなおさなけれぱならない。今後も「政治をやる」という「政治家」中野が、志賀や神山らとともにさ迷うようなことになる原因は、ここにある。
わたしは芸術家中野に忠告したい。これからも政治をやり芸術をやるというのであれば、俗流のブルジョア政治家との結びつきをやめ、人民の革命斗争の小学生となり、人民の政治家に深く学んで、真の芸術家として再出発することを。
(おわり)
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<承前> 中野重治作 小説 甲乙丙丁について
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2016-12-13T06:23:00+09:00
2016-12-13T06:24:52+09:00
2016-12-13T06:22:48+09:00
Ygongitune
ゴンギツネの回想
戦前と戦後
中野は『甲乙丙丁』の中で、戦前の活動と戦後の活動についてくりかえしふれている。それは現在へとつづいている間題として描いている。小説を通して読みとれることは、戦前の中野についていえば天皇制にたいしてあれこれの屈折はあるが、やはり身を挺してたたかっている。しかし戦後の中野は、身を挺してたたかうという姿勢を持っていない。これは中野の小説の中から出てくる一つの結論である。この戦後の中野の姿勢の変化は、いったいどこからきているものだろうか。それは中野の個人生活、文筆家としてのありかたからも来ていると思うが、わたしは主として一九四五年を境とした日本社会の変化と関係があると思う。この一九四五年を境とする日本社会の変化に中野がどのように自己を対置していたか、どのようにこの変化を見、どのような立場をとったかは、戦後の中野の文学を分析するうえで大切な点であると思う。
戦前あれほど天皇権力にたいして憎しみをいだき、打倒する日の一日も早いことを願った中野、そのためにたたかい、傷つきもした中野、それは「折れたまま咲いてみせたる百合の花」とまではいわぬまでも、まじめに真剣に敵を見、自己を見ている。その中野の心の中に戦後空洞ができたようにたたかう姿がなくなっている。中野の内にたたかう憎むべき敵がいなくなってしまったのだろろか。宮本顧治や百合子の場合、ほとんど手ばなしで敗戦直後、はればれしさを感じている。やっと自分たちは自由になった、自分たちは正しかった、勝ったのだ。それは百合子の敗戦直後の小説の中にありありとあらわれている。こみあげてくる喜び、それを百合子は書いている。中野は多少とまどいを感じながらも、今からは新しい目由な社会がくるのだ、それについて行かなければいけないのだと、自分にいい聞かせながら、戦後出発をする。
中野にとっても宮本にとっても戦前自分たちが求めていた社会、理想の実現のためにたたかっていた社会に似たものが、戦後そこに目の前におとずれたのである。口先ではいろいろ不満もいい、頭の中ではいろいろ社会批判もするが結局、アメリカ帝国主義に支配された戦後の日本社会に押し流されたのである。中野の中には心に炎ともえるアメリカ帝国主義に対しての煮えたぎる憎しみ、階級と贈級の激突としての政治がなくなってしまっている。ここから中野流のひねくった「手続輸」が出てくるのである。中野の戦後の半燃焼は五〇年問題と六全協で宮本、蔵原によってかき消されてしまう。どうしてもこの社会をひっくり返して、虐げられているいく千万人民を解放しなければならない。そのために生き、そのために死すという革命の二字がなくなっている。
中野は戦前と戦後の問題にふれても、そもそもその根本になる一九四五年を境にした日本社会の変化をしっかりつかんでいないし、分析をおろそかにしているため、中野は戦後の階級と階級の斗争、アメリカ帝国主義と日本人民の斗争にたいして傍観者的な位置に自分をおいてしまった。
敗戦直後、宮本の家に「アメリカ人」がおとずれる場面がある。中野もその場に居あわせる。百合子と三人がこの「アメリカ人」つまりGHQの人間とあう。「アメリカ人」は、共産主義者は天皇についてどう考えているかを問いただす。それは戦前の特高警察とは別の形で相手の意見をよく聞き参考にするためだ、というような態度で問いただす。宮本は絶対主義天皇制について意見をのべる。百合子は「そうよ、そこが大切よ」と、はればれした態度でいう。中野は宮本の天皇制論とは別に人間としての天皇について意見をのべる。すると、「アメリカ人」は、アメリカ帝国主義――占領軍を敵とみないその「共産主義者」をみきわめた上で、昆明で鹿地亘といっしょに仕事をしてきたという。さも、アメリカ帝国主義とあなた方は早くから友だちであったというように巧みに話題をもって行く。戦後の新しい支配者にたいして宮本は「天皇制」を、中野は「人間天皇」を問題として提出するのである。
一九四五年は人民の革命運動にとって、また、共産主義者にとって、どのような歴史的瞬間であったか。一九四五年は日本社会にどのような変化をもたらしたか。この時は党創立以来、もっと大きくいえば、明治維新以来はじめておとずれる政治的危機の一面をもっていた。
四三年からはじまる帝国軍隊の崩壊、四五年の敗戦、同年秋のアメリカ軍の上陸、それは支配階級をして、いままでの支配形態をかえざるを得ない危機なのである。しかし、これを迎え撃つ人民と革命の側でいえば、前衛党は完全につぶされ、人民を組織して、権力奪取に立ちあがる主体的条件はなかった。戦争を内乱に転化する事が出来なかった。この政治的危機の一面と党と人民の状態にこそ共産主義者は目を向け、そこから歴史の教訓、戦前の党活動の教訓をくみ出さねばならない。アメリ力帝国主義は、資本主義の発達した国をまるごと支配するにいたった。こうして、戦前の天皇制と人民が敵対する社会から、米日反動派と日本人民が敵対する社会に変化したのである。中野たち甲乙丙丁氏は、ポツダム宣言によって、日本が解放されたと思っていたし、いまでもそう思っているようである。ほんとうに日本は第二次世界大戦でポツダム宣言によって解放されたか。日本帝国主義は、米、英、仏をふくむ連合軍によって打ち倒されたのか。そうではなくて、日本帝国主義は中国の抗日統一戦線を主力軍とした全世界人民、そして日本人民の闘争によって打ち倒された。スターリンに指導されたソ連はこの戦争においで重要な役割をはたした。日本帝国主義とアメリカ帝国主義の戦争についでいえば、これは帝国主義国家間の植民地を奪いあう戦争である。
ところが第二次世界大戦に参加をしたアメリカ帝国主義が、反ファシズム統一戦線の勝利の結果を泥棒猫のようにぬすみとって、戦後の日本を占領し、従属させたのである。日本の売国的独占ブルジョア階級は、ひたすらこれにひれ伏して、自らの存命を願い、アメリカ帝国主義の指揮のもとで日本人民支配をたくらんだのである。中野はここのところで分析をおろそかにしている。その時期の中野には傷つき、挫折した自分でも党と人民のためにたたかえるだろうかと、まじめに政治を考えていた面と、かれの小ブルジョア・インテリゲンチャとしての面と、二つの面があった。この矛盾は四五年から、現在まで続いて行く。中野はここのところで、インテリを好み、インテリ「革命家」の流れから政治と文学を考えていったのである。中野は戦前、小ブルジョア的であれ何であれ、そこのところから前衛党を純粋に見ていた。そし人民のところに必死で近づこうとしていた。戦後の中野はそれが文壇的、書斎的なところから、党というものを見ている。かれは50年間題の時期にたしかにアメリ帝国主義とたたかおうとしたと思う。その真面目さのもう一つの面に人民の生活からかけ離れ、人民の立場に立とうという自己改造をしようとしない生活があった。
中野の場合この立場の変化が45年を境にして急速に激化して行くのである。わたしは中野の文
学と人のほんとうの意味の「転向」は、四五年であろう思う。戦前の活動家や文筆家は、戦前の活勘と直接結びつけて、戦後を見たり考えたりする傾向がある。四五年の日本社会の変化を、歴史を改造する、革命をやるという人民の立場から深く分析してみない傾向である。そのため戦前、貧困人民や苦学生を素材として小説を書いていた小ブルジョア作家もふくめて、戦後は裕福な中産階級かその上あたりの心理の世界を素材として小説を書いている。そこには、およそ食うとか、生きるとかたたかうという苦難は、テーマとならないかのようである。ましてや、人が人を搾取し、支配するという不正義や、それにたいする反逆、米日反動派を打ち倒すのだというようなテーマは、問題になって来ない。こうなってくると、戦後プロレタリア文化運動は、人民の闘争からかけ離れてしまい、近代主義との区別がつかなくなってしまった。ほとんど近代文学派のいうとおりのテーマにもとづき、そのぺースにのせられて発言し、行動していった。中野はその鮮明な一例である。『政治と文学』の問題にしても『集団と個』の問題にしても『主体性論争』にしても、あらかたの論争はみな相手の土俵の中で相撲をとっている。これではプロレタリア階級の独自性もないし、指導性もなくなってしまう。中野は「人間性論」にもとづいて近代文学派と論争して行ったのである。
中野は「転向」してのち、執筆禁止になる。一たんは屈服しても抵抗を続けた。それは、その後の中野を救うことになった。しかしもう一面、中野は、かれの文学コースがブロレタリア文学の方向から文壇的、書斎的つまりブルジョア的になっていった。中野たちも戦後の出発をする場合、およそ階級的立場のはっきりしない「民主主義文学」をスローガンにして文学活動をはじめるこのあいまいな立場は、もっとも戦斗的で組織的で強大な近代工業プロレタリアートと、農民を引きつける文学を生み得なかった。階級的立場を鮮朋にしなくて、広範な日本人民と文学者を、反米帝、反独占の斗争と文学創造に組繊することなく衰退していくのである。
中野の厳密さと粗雑さ
中野の文学を愛好する者の多くは、中野のもっている物事にたいするいささかのインチキも詐さないという厳密さ、折り目正しさを愛していた。政治的な大きな問題であれ、日常生活の上での小さな問題であれ、中野の作品の中にはそれが強く貫かれていた。中野はそのように文学と生活を渡ってきたのである。30年代のはじめに宮本や蔵原たちと論争した時も中野の中にはそれがあった。当時の宮本や蔵原は、およそ日本社会の現実、日本のプロレタリア文学運動の現実から出発するのではなく、フリーチェの機械的唯物論やら、何やらがゴッチャにまじった、ソ連直輸入のテーゼを振り回して中野たちの鼻づらを引きまわした。中野は少しでも日本の現実から出発しょうとした。宮本や蔵原と論争したし、日本の実際に入ろうとしていた。中野には宮本や蔵原のゆがめられた、偽物の「輸入品」ががまんできなかった。しかし宮本や蔵原がレーニン主義の旗をふってみせるので中野は批判点をはっきりさせることができなく、ほとんどかけ出すようにして宮本や蔵原について行ったのである。中野はレーニンを心から愛していた。しかし戦前の党は正しい政治方針をもちつつも、全体としての党活動はイソテリ的であり、小ブル的であった。当時の宮本や蔵原の本質は、分析してみなければならない。中野が「ブルガリアの青年」と名づけた 宮本を分析してみる必要がある。かれらは、レーニン主義の旗はふったが、その本質は小ブルジョア急進主義であり、ほとんど日本の現実を知らないとこからくる主観主義にもとづく芸術教条主義が根底となっている。それにたいして中野は農民的インテリゲンチヤとまでいえるほどの素朴さ率直さで抵抗している。自分の納得できないものは、ガンとして受け付けないという態度がそれである。それでは、この中野の厳密さ率直さは、はたしでプロレタリア階級の厳密さ率直さと同質のものであるのかどうか。この点をも、われわれは分析してみる必要がある。それは中野がいう宮本の「原則性」ともかかわの合いがある問題である。そのように厳密であるはずの中野が、『甲乙丙丁』では、共産主義者にとってもっとも大切なマルクス・レーニン主義の革命的原則にかかわる問題、革命と反革命の問題に関してはきわめて粗雑である。たとえば「宮本の北京より」というような、およそ粗雑であいまいな問題の設定をして小説を組みたて、自分は「ソ連より」というような、これまたおよそ粗雑であいまいな立場で問題を出している。これほどの大ざっぱさがあるだろうか。これはこの小説の最大の弱点であり、このため中野の宮本批判は基本的に不徹底であり、不鮮明である。これは中野の立楊の挫折をはっきりと現わしている。宮本や蔵原に関していえば、かれらははっきりした反マルクス・レーニン主義であり、反人民、反革命である。宮本修正主義集団は修正主義者であるがゆえに音をたてて崩れ落ちようとしているというのに、中野には六〇年代を通じての共産主義運動における革命と反革命のマルクス・レーニン主義と修正主義との二つの流れの大格闘が見えないのである。ソ連にたいする分析が大ざっぱで不正確であり、中国にたいする分析が大ざっぱで不正確であり、同時に日本
の前衛党のマルクス・レーニン主義の革命的原則について大ざつぱで不正確である。多くの革命的日本人民は、レーニンと偉大な十月社会主義革命にたいして、心からの尊敬をもっている。そのことと、世界最初の社会主義国がスターリンの死後、フルシチョフによって指導権がのっとられた修正主義国となり、ブレジネフによって社会帝国主義にさせられた。そのこととは区別して考えている。また、多くの日本人民は、修正主義にのっとられたソ連の指導部と、その支配下にある広範なソ連人民とは区別して認識している。中野は自分の青春のあこがれであり、レーニンと何年間かは同じ空気を吸って生きていた、そういう心情からソ連というものを見ているのではないだろうか。もし中野が、階級と人民の立場にしっかりと立ち、日本革命をやりぬくという立場にしっかりと立ち、粗雑でなく厳密な、心情的でなく理性的な、弱い頭でなく強い頭をもって現実に対処すれば、ソ連を中心にして発生した現代修主義を見ぬくことができたはずであるし、宮本にたいしてもこの国際的ペテン師を革命におじけづいて議会主義にころげ落ちた俗流ブルジョア政治家の正体を見抜くことができたであろうし、宮本顕治に革命的に反逆したであろうし革命的に暴露できるであろう。中野の「厳密」さの中には、プロレタリア階級の世界観である、事物を対立物の統一の法則で見ない立場、一つの事物の中には、互いに対立し斗争する矛盾の両側面があり、それが斗争の中で相互に転化するという一を二にして見る唯物弁証法の観点がなくなっている。中野は、どんなことには細ちをきわめて厳密であり、どんなことにはおどろくべく無神継で粗雑であるか、このことは、『甲乙丙丁』という小説を分析する一個のカギである。それではレーニン主義の祖国が修正主義者に支配され、世界は何もかも暗やみになってしまったのだろろか。世界人民には社会主議革命の灯台はなくなったのだろうか、世界にブロレタリアートと共産主義者がいるかぎりそんなことはありえない。毛沢東は、ソ連に修正主義が発生した正反両面の教訓をくみとって、社会主義社会にはプ ロレタリア階級とブルジョア階級の斗争があること、ひきつづき社会主義革命をやらなければ必ず打ち倒されたブルジョア階級が復活してくることを明らかにし、プロレタリア文化大革命を発動し社会主義から共産主義への通を掃き清めたのである。この人類はじまって以来、もっとも大規模で壮大な革命の烈火は、全世界の共産主義者と革命的人民をふるい立たせ、マルクス・レーニン主義の赤旗を高高と掲げたのである。
レーニン亡きあと、マルクス・レーニン主義を毛沢東は全面的に受けつぎ守り発展させたのである。毛沢東、それは現代のレーニンである。文学芸術の聞題だけにかぎってみても、レーニンの「党の組織と党の文学」以来、全面的に文学芸術を分析して、マルクス・レーニ ン主義の文学芸術論を発展させたのは、毛沢東の『延安の文学・芸術座談会における講話』である。これは文学・芸術に閲するマルクス・レーニン主義の普遍的真理である。『文芸講話』は第一に、文学・芸術が人民に奉仕するものであること、第二には、いかにして人民に奉仕するか、この二つに問題を集約してプロレタリァ文学・芸術の行くてを正しく指し示した。宮本や蔵原は、実にずる賢いやり方でこの『文芸講話』が日本の具体的実際と結びつくのを、あれこれの陰険な手口で一貫して妨害してきた。プロレタリア文化大革命がはじまるや、「これは中世的な野ばんな反文明的なことである」というととろまで、つまり反マルクス・レーニン主義にころげ落ちてしまった。中野は『甲乙丙丁』の中で、中国や毛沢東思想について少しはふれているが、それは何としてもプロレタリア階級の厳密さからはほど遠いところに立っているのである。中野は戦後、随筆を除くと主として自分の過去のできごとや生いたちを小説の主題として来た。それが続いて『甲乙丙丁』のところまでくるのである。中野がもっと目を開いて人民の生活、その怒り悲しみも、斗争を描くとすれば、自己の世界観について、自己の立脚点について改造を加えなければならないだろう。文筆家は自己の立場の改造を抜きにして、芸術上の飛躍をなしとげることはできない。立場とは世界観のことである。自己改造の仕事は、やろうと思えば、苦痛さえいとわなけれな何歳になってもできるはずである。プロレタリア文学を志す者にとって立場を移し、人民の言葉と生活を知るということは絶対的なものである。中野は文壇的になり、書斎的になりもはやはだか一貫ではやり直しがきかぬところまできてしまったのだろろか。かつては人民に心をよせ、自分にも厳しく対し、人民生活のふところにとび込もろとしたその中野には、もはやプロレタリア文学と人民のために血と涙を流すことができなくなってしまったのだろうか。一九三四年の弾圧に運動の継ぎ穂さえ残さないまでに運動を導いた宮本や蔵原の教条主義にたいする批判を鹿地亘にたくして、自分ではできないという情けないところまであいまいになっているのだろろか。それはだれかがなし遂げねばならない。日本のプロレタリア文学と芸術を発展させるために、日本革命のために必ずなし遂げねぱならぬ。それは毛沢東の『文芸講話』の道にそって自己の立蜴をプロレタリア階級の立場にうつしかえた芸術家たちによってのみできる事業である。
中野は、政治についてもきわめて粗雑であいまいな態度をとっている。われわれが政治と文学を問題にしたり、政治に文常が従属するといったりする場合の政治とは何をいうのだろうか。この政治とは、いわゆる少数の政治家の政治ではなくて、階級の政治、大衆の政治、つまり階級対階級の斗争の政治を指すのである。
ゆらい、マルクス・レーニン主義者は、歴史は少数の英雄が作り出すものではなく、何万、何億という人民がつくりあげてきたし、いまからもそうであると考えている。この人民こそが歴史の主人公であり、人民の生活と斗争こそ芸術活動の唯一の生き生きした源泉である。
プロレタリア階級の政治家というものは、いく千万人民大衆の政治的意見を集め、練りあげ、これを再び大衆の中にもち込んで、大衆に受けいれられ実践されるようにする政治家をいうのである。
芸術についていえば、人民大衆の生活と斗争が作家の頭に反映し、作家の手で集中され、高度に典型化されたものである。これが再び人民の中に作品としてもち込まれれば、その現実より、より本質的であり、より鮮明であるために、人民に歓迎され、人民斗争にふるい立たせるのである。
代々木の家の中に閉じこもったままで世の中と合わないものを頭の中だけでこねまわし、自分こそ世界一の利口者だとうぬぼれて、本家本元はここだけで、他の店には卸さないといった貴族的ブルジョア的、ドン・キホーテ政治家、宮本や蔵原は腐敗したブルジョア階 級の政冶家である。中野はこういう俗のブルジョア政治家と自分の文学を結びつけている。代々木に巣くう俗流ブルジョワ政治家をテーマにし、それを人民の政治家であるかのような位置にすえて、あれこれと論じているのである。
中野の文学が文壇的・書斎的になったように、中野の「政治と文学」も、そのとらえ方、見方、立場が、ブルジョア的に変化してきている。これに反してプロレタリア階級の政治のみが芸術の真実性と一致し得るのだ。
中野は、日本社会の階級斗争にたいする態度があいまいなことから国際情勢についても敵と友との関係があいまいになってくる。米日反動を打倒し、人民の手に権力を握ろうとする日本のブロレタリア階級にとって、プロレタリア独裁と暴力革命の普遍的真理を守り発展させた毛沢東思想こそ、導きの星である。
ブロレタリア文化大革命を勝利させた社会主義中国は、革命的な日本人民にとってもっとも頼りになる友である。宮本の反革命は、反マルクス・レーニン主義であるのであって、中野のいうようなものではないのである。日本革命にかかわるマルクス・レーニン主義と修正主義の問題を「北京より」とか「ソ連より」というようなあいまいで粗雑で、不正確な問題設定から論じてはならないのである。中野は、宮本に反対するという自分自身の立場が「ソ連より」というあいまいなところにあるために、この日本のブロレタリア階級の原則的で厳密な、人民に奉仕するという崇高な精神に立ち、そこから宮本を批判することができない。
日本革命に責任を負う日本のプロレタリア階級は必然的にプロレタリア国際主義の観点についてもきわめて原則的であり、厳密であり、戦斗的である。中野の粗雑さ、不正確さとのあいだには大きなちがいがある。
<この項、続く>
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中野重治作 小説 甲乙丙丁について
http://gongitune.exblog.jp/26223215/
2016-12-13T06:15:51+09:00
2016-12-13T06:15:24+09:00
2016-12-13T06:15:24+09:00
Ygongitune
ゴンギツネの回想
また、それゆえの真実というのもある。
誠実でさえあれば、相手に伝わるという場合もある。
それにしても、よく受け止めてくれたものだ。
中野重治の小説『甲乙丙丁』について評論文を書いた直後、「得る所があった」とカンパを添えて丁寧な返事を貰った。
1970年代の初めだった。
石堂清倫や神山茂夫が、その経緯を知っていたらしい事は、後に判った。
二人にも感謝。
「平野謙が酷い反論を書いていますよ」と教えてくれたのは、北九州の作家、波佐間義之だった。
世界史が、大きくうねるように、変動し始めた頃だった。
<思い出の文章を記録しておく>
2016年の暮れに記す
中野重治作
小説 甲乙丙丁について
白石 信夫 (藤井義昭)
1970年6月17日
はじめに
中野重治が『甲乙丙丁』を書いた。それはあたり前のことである。しかし、そのあたりまえが、私の重大な興味をひく。
それは政治的な意味でも、芸術的な意味でも厳密に検討してみる必要にせまられる。
中野は『甲乙丙丁』のなかで、宮本顕治の反人民、反革命、修正主義への転落を、中野の立場から、小ブルジョア・インテリゲンチャの立場から描いている。
中野は、戦前、戦後の前衛党の姿に批判をくわえ、比較的に正しいと思われるいくつかの点を指摘している。
中野は宮本修正主義を、主として官僚主義批判という型をとって描いているため、中野の立場・観点についても分析をくわえてみる必要がある。また、戦前、戦後の芸術運動について、とくにプロレタリア文化運動についても、かなり紙面をさいているので、この点についてわたしの観点を厳密にしてみたいと思う。
『甲乙丙丁』は中野文学の一つの高峰を示すものだと思う。
それは日本軍国主義が復活し、日米「安保」条約によるアメリカ帝国主義と、日本反動派の侵略的野望が一つの節を画する時期に前後して書かれ出版された。
『甲乙丙丁』は戦前、戦後の左翼運勤、前衛党の姿、そのなかの人間関係と事実関係、政治と文学、国際共産主義運動の分裂とその真実、日本人民の斗争の姿、その他を素材にしている。
前衛党をまじめに愛し、信頼している人間の目から見て、戦前、戦後の党の活動はどのように映ったか、これを中野は党のなか、しかもその中心部から描き出している。
『甲乙丙丁』は、宮本顕治や、蔵原惟人、袴田里見たちが、ある楊合は戦前の間題とも関連して、ある場合は戦後どのようにしてその姿が変化していったかを実にいきいきと描いている。
中野の前衛党にたいする批判と問題点の提出を見てみよう。
彼はその問題に、まじめに、しかも自分をさらけ出して、対決している.そこには宮本や蔵原たちの巧みで実に陰険な裏切りを決して許しはしないという文筆家の執念のようなものも見える。それが小林多喜二や宮本百合子への愛情と重なって、重大なものに見える。
しかも小林や百合子にたいしても正しく見、その歴史的な投割と欠陥についても、きわめて落ちついた、冴えた目で問題を提出している。
中野は、戦前の三一~三二年のプロレタリア文化運動にあった芸術教条主義(形は「左」、実は右)を批判している。それと同時に戦前の党を分析的に見ている。その党が正しい政治路線をかかげてたたかった点と、政治路線を広範な人民のものにし得なかった前衛党の
間題点を指摘している。そして戦後の党が一かんして正しい政治路線をもち得なかったことにもかかわらず必死の人民の斗争がつづいたことを描いている。
その描きかたのなかで、戦前の中野は体ごとぷっつけて、それこそ傷だらけになって闘ったが、戦後の中野には敵がいなくなっている。これは中野そのものの重大な変化である。戦前の党にたいしての中野の態度と、戦後の正しくあってくれと願う中野の態度との あいだには、大きな差と変化のあることが説みとれる。
事は軍大である。宮本顕治が党をまるごと修正主義に転落させ、革命を投げ捨て「共産党」を僭称しながら、それをブルジョア議会政党にしてしまっている今、中野の提出した問題にわれわれも重大な関心をはらわなければならない。たとえ中野「自分の立揚」から問題を提出したとしても、その間題点について、マルクス・レーニン主義者として、また、プロレタリア文化、人民の文化を確立する立場から十分な分析と解答をあたえる必要がある。この問題をほったらかしにして、いまの米日反動派の日本軍国主義復活は、バクロできないし、前衛党の問題と、党の中から、外から、まじめに見、支持している人たちに正しい道すじを示すことはできない。
ある時期の宮本をいわゆる「北京より」とみている中野の批判を見てみることにたいして中野は次のように書いている。
<つまるところ、全党そのものが北京側に傾いているだろう。北京への傾斜は、ただちにそれを反ソ傾斜ということはできない。しかし現実には北京への傾斜と全く独立にも反ソヘの傾斜がある。現実そのものが高田実論文、津雲間答、鷲見挨拶、吉野(宮本のこと)中国療養の連絡文書、新日本文学会
大会でのアジア中心主義の『対案の件』ときている。実はそれが「四・八アピール」の根底にあるのではないか…「しかし、もっとずっと溯るが、戦前は別として――この『別として』がよくないってことは知ってるんだ。知ってるさ。ちょっとはわかってるんだ――戦後、とくに四八年、四九年ときて50年、それから『六全協』、それからその直後とその後、あすこへと来るな。おれたちがあれだけ気をつかって、ひょんなことになっちゃっちゃ困ると思って能力以上というほどクソ真面目になってやったこと、あれが「さあーッ」と元も子もなく流されちまったからな。無理にも流された。おれとしていえやぁ、それを見ながらおれがそれをそのままにして来ちまった。いつだったか、おれが佐藤(蔵原のこと)に邪推したかれ独特の『見送り』って奴、あれじゃない。佐藤のは邪推が当っていたとして左右見はからっての意識した見送りだったろう。おれのは腰を抜かしちまって、あれよ、あれよと声に出すこともできぬざまで見送っちまったのだ―――「党利己心」という熟せぬ言葉が一時期の党内で使われたことがあった。大衆の利益をこそ第一にしなければならない。人民の利益をこそ第一にしなければならない。労働者階級の利益をこそ基本的なものとして、第一に注目しなければならない。それとちょっとでも離れてわが党の利益、共産党の利益ということを考えはじめたがさいご、とんでもないところまで誤りが進むのだ。誤りは時には驀進する。党利己心、党エゴイズムを克服すること、これこそが一番の大事なのだということをしきりにみんながいったり書いたりした。このことを党利己的にいったり書いたりした。そうして党利己のくせだけが伝統的に残っちまった。今におき、それが本流で流れている。>こう書いている。それはそのとおりである。問題は宮本の本質を官僚主義とだけから見てはならない。中野は、宮本の「北京より」を批判しても、中野自身は反中国.反毛沢東思想にはなっていないがしかし、いわゆる中ソ論争は、中野の個人的感覚や手続き的な体験だけでははかり切れない。マルクス・レーニン主義の普遍的な真理をみとめるかどうか、10月革命の普遍的な意義をみとめるかどうか、いまなお、帝国主義と資本主義制度のもとにおかれている世界人口の三分の二をしめる人民が今後もなお革命をおこなう必要があることをみとめるかどうか、すでに社会主義の道をあゆんでいる世界人口の三分の一をしめる人民が今後もなお、革命を最後までやりとげる必要があることをみとめるかどうかの問題、一口にいえぱ国際共産主義運動の運命と全世界の民族と人民の運命がかかっていたのである。この面については中野は身のまわりより以上には認識が出ていない。また、さけて通っている。
宮本は、国際論争をソ連――中国――その間にある日本というようにみて「自主独立」の道にころげこんだ。と同時に、中野も日本というものを、宮本のように入民が権力を取った国のようには認識していないにしても、アメリカ帝国主義の日本支配に反抗する人民の立揚に立つことが弱く、宮本の文筆、やり口の中からだけギマンとベテンを探し出しているように見える。真のマルクス・レーニン主義者は、プロレタリア階級独裁と暴力革命の観点と、人民の階級斗争の実際の中に身をおくことなくして、宮本修正主義集団を打倒し米日反動とたたかい、人民を革命にみちびく人民の文学を生むことはできないだろう。
いま一つ、前衛党にたいする中野の批判の点にふれてみよう。中野は前衛党というものにたいして「こうなくてはならないのだ」という自分の見方をもって、宮本の手口をバクロしている。これは当っている。しかし「こうなくてはならないのだ」ということが折目正しいく清潔で強い党」というだけにとどまると、前衛党を形而上学的に見ることになる。
宮本が党をどのようにしてのっとり修正主義の党に転落させようとしても、それが前衛党である以上、前衛党のなかには、かならずその対立物である真のマルクス・レーニン主義者が立ちあがって行くのである。これは党内の矛盾運動でありこの矛盾運動を見ないと修正主義をとほうもなく大きくみて、「腰を抜かして、抜かしたまま泡をふいて、あわわ・・…といっている」ようなことになるのである。そのことをぬきにして、指摘したことがよしんば正しくてもそれでは立ちあがって宮本修正主義とたたかい、かれらを打倒する党内斗争を進め、かれらを永遠に党から追放し、かれらの手から革命の旗をうばいかえし、真の前衛党を建設することはできない。この党というものを人民の斗争から切りはなし、党内斗争を米日反動と人民の斗争の党内への反映とみないと、宮本と同じ形而上学的に、静止的手続き的に見ることになってしまう。
ブルジョア俗流政治家・宮本顕治
中野は「党」を愛している。主観的には非常に愛している。その中野がだんだんと党から離れて行く、いや離れて行かざるを得ないようにされる。つまらぬことをしたものだと、自分でも思う。そのとたん「何くそ」といってみる。しかし、この「何くそ」とあびせ返す力が弱い。そのあびせ返しが戦前のそれと全くちがっていることに気がつく。この中野の感じ方は、分析をしてみる必要があろう。
中野がそう感じる宮本らのこのやり口こそ、戦後のアメリカ帝国主義のやり口であり、「共産党」もそれにおかされているのだということまでほり下げてみる必要がある。われわれがアメリカ帝国主義と一口にいう場合、日本を占領し支配し、人民を抑庄、搾取していることと、いま一つ忘れてならないことは、35年前後にアメリカ共産党をブラウダー修正主義に転落させ、スターリンの死後、社会主義の祖国・レーニンの作ったソ連共産党にフルシチョフ修正主義を発生させ、第二次大戦後日本共産党の中に党はじまって以来、最大の裏切り者宮本修主義集団を発生させた経験をもっている点である。
アメリカ帝国主義は国家独占資本主義体制を通じて、日本人民の斗争にたいして、ある時は弾圧しある時は修正主義、労働貴族をつかって、足もとから押し流しているのである。
中野は『甲乙丙丁』の中で自分を中央委員であり「新日本文学の仕事をしている」田村と「党の資料部関係で働いている」津田と二人にわけて書く手法を取っている。そして、現実から突如話が戦前にとび、戦後に変り、それが現在と入りまじってくる。また実際に自分が体験したことと、戦後誰もが共通して体験したことによりかかって筆を進めている。これは小説の中でバクロ展開されて行く内容にも関係のあることであって、宮本の裏切りの深刻さを表現する上ではある面では成功しているが読む側の立場に立ってみると、何としても難解さと、小説として完成しているものを、わざわざ登場人物の実名を明かしたくなるような気持にさせる。
中野は自分を二人に分け、これと宮本顕治、蔵原惟人との関係で簾を進めて行く。いずれが甲とも乙とも丙とも丁ともつかぬが、この四者を通じて、青春から文学をともにし、政治をともにしてきた人間関係を描きあげている。中野は宮本を、はじめ「ブルガリアの青年」とひそかに名付けて全く新しいゼネレーションを代表する人物として尊敬している。「ブルガリアの青年」というのは、ツルゲーネフの小説に出てくるインサロフという名前の、「トルコに国を奪われて、それからロシアに来て、モスクワ大学に学んでいる青年。かれの念願はブルガリアの独立、トルコの軛からもう一度祖国プルガリアを解放するという大事業にあった。インサロフはこのブルガリア独立運動の指導的斗士なのだった」そのインサロフに宮本顕治が、中野には似てみえたどこがではない、堅忍、不屈、質素、勉強、何もかも似ているように思えてくる……。中野はそういうふうに宮本の印象を書き出している。「慎重で、論理的な」宮本に「すぐ走り出す、あわてる」中野が感心しているのである。百合子と結婚する時も「上部の承認は既に得てある。ここでは君たちの承認を求めるというんじゃない。ただ実際問題として、二人とも日常的に君たちと接触することが多く、合法非合法関係が最近ひどく錯雑してきたので、そのことを知ってもらいたいのだ。なるべく早く公表する予定だが、その時まで黙って承知していてもらいたい……」と切り出されて、その「厳格」で「原則的」な熊度に恐れをともなうほどの、尊敬の念をいだくのである。古川(窪川鶴次郎〉が、「そも馴初めのそこのところを語れよ、よ、その一端なりを洩らせよ」というと、宮本ははにかみと同時にむっとして「いや、それはそれだ、別にかくすわけじゃない、しかし、ここで話さねばならぬというわけでもないからね…」といって席を立つ。その宮本が、さいきん「ワッハッハ」と笑いだしたと窪川が中野にふしぎがってつげる。中野も気がついてみると、宮本は大切なところで、「そりゃ君、あれだよ。ワッハッハ」と、さながらブルジョア俗流政治家のように問題をごま化し処理して行く。「ブルガリア青年」が「ワッハッハ」と笑うのである。
宮本百合子が突然倒れた。中野にとって百合子は友であり、また心のささえでもあった。その葬儀の友人代表に湯浅芳子を入れるかどろかになった時、宮本がはげしく断わる。それこそ、皆があっけにとられるほど激しかった」中野は「それはそうだ、そごに吉野(宮本)の純粋なところもある。純情でさえあるところもある……それはそうだ、それでもそこまでにしなくてはならぬものだろろか……」と自問する。その宮本が再婚するとなると、中野の全く知らぬところで、風のうわさで「宮本さんは再婚なさるでしょう」と、一人がいうと、他の数人が知って知らぬふりをして笑ってごま化してしまう。中野はふしぎに思う。
六全協がアカハタに発表された時、志田重男の論文が同時にアカハタにのる.中野は宮本に「当然頭から食ってかかるべき宮本が沈黙を守っているべきではない」という。宮本は「いや、こういう問題はみながおそすぎると思うぐらい、ゆっくりしすぎた方がいいのだ」という。中野はここでも宮本の深謀遠慮に感心し、おのれの軽卒を恥じる。六〇年「安保」の樺美智子の虐殺の時もそうだ。野坂まで葬儀の実行委員会に加わっておいて、それから宮本の意見で急に彼女はトロツキストだといって、葬式に反対し、「安保」斗争の、記録写真集からもけずってしまう。ここでも中野は、そうまでしなくてはならないものだろろかと思う。宮本の裏切り、しかも政治的変質に気がついていなかった。中野と蔵原の還暦の祝いに中野は鳥羽僧上の画を贈られる。それは宮本と蔵原の連名でおくられる。それが中野と政治上、文学上、意見の差がおきていることを解決るための「政治的配慮」であることを中野は知る。中野の好しそうなものを贈って、政治的とり引きの材料にする宮本の手口。
新日本文学の建物移転の問題ついて。党の会議で承認されていた。そこには宮本も参加していた。それが、新日本文学と党の問題がからんできて、党としてみとめないことになる。中野が、それは正式に会議で承認され、それには宮本も参加していたじゃないかと、思い出させようとすると、宮本は「いや、知らない」「おぼえていない」としらを切る。中野は党機関要員を「下っぱ小役人根性」と書いた。宮本は怒る。党に「近代化委員会」が生まれ、党が「近代化」され、それが「執務」になり「営業」になり、会議では問題にならず「内面指導」を通じて官僚的に運営されて行く。中野はこの面から党を批判する。しかし、しょせんそれは手続きと手続きのたかいであり、宮本のずるがしこい巧みなやり口に負かされてしまう。「善良な党員」は片隅にだんだんおいやられて行く。ついに中野は中央委員会でつるし上げになる。多数はすでに中野たちに反対であり、宮本は取り巻きにかこまれて、宮本は壇上に裁判長のように居すわり、にらみつけ、取巻きに「中野は戦前転向した。初心忘れるべからずというが中野の本質は戦後再入党を許された時の初心をわすれてしまったのだ」といわせる。中野は、それはそのとおりだ。俺は腰をぬかして今、あわわといっているが、だからといってお前は何をしてもいい権利をどこから手に入れたのかとせまる。宮木顕治が38年NHKテレビで自主独立を誰にもはからず発言をする。誰かまわず、つまり党内でプルジョア政治家よろしくはぶりのきいた宮本のこの行状を窪川の「宮本は、さいきんワッハッハと笑い出した」という言葉であらわす。人民から孤立し、人昆から見捨てられ、戦前戦後のどの時期より孤立した「党」を、「強くなった」、「拡大した」といいはるルジョア俗流政治家が、ジャーナリズムを気にしながら、しなを作って、ワッハッハと笑うのである。マッカーサーの死に熱湯の一文を書かない『赤旗』は、『平民新聞』とも『無産者新聞』とさえもことなってきていること。その『赤旗』をふやしても、アメリカ帝国主義とたたかうことができるだろうか、人民の新聞たり得るだろろか。それでも宮本のワッハッハはつづくのである。中野は、宮本をずる賢い、しかしこっけいなドン・キホーテとして描き出している。
中野は蔵原を、中野と宮本の閲係をとりもつピエロのように描いている。新日本文学の党員に党員経歴書を出せといってくる。党員グループは一度出してあると再提出をことわる。蔵原が走りまわって一応提出しなくてもよいことになる。本部の手おちはみとめないが、まあまあということになる。蔵原惟人はそのやり方がおかしいことは承知していながら、それとたたかわずに、知ったままで「やり過ごして」しまうのである。そしてみんなのところにきて毛沢東も意見のちがいがあったが湖南に帰って決定を守ってやったじやないか」というような意昧のことをいって、党員グループからやりあげられる。また、蔵原は世界のプロレタリア文化革命は、ロシア型と延安型があって、日本はどちらともちがうんだよ、というような出まかせをいって、中野をケムに巻いてしまう。中野も感心してこれを聞く。何一つの、日本人民の現実を知らず、外国の文献を教条的にほん訳、日本に持ちこんだこの男が、戦前悪戦苦斗し、生命をかけて日本のプロレタリア文化運動を切り開いていった中野たちの鼻づらを引きずりまわしたのもおかしなことだが、宮本の裏切りに気がついていながら、それをやりすごして中野たちのところに来て、いろいろなグチをこぼすのもおかしなことである。中野たちも一度ならず蔵原の「努力」なるものをかって鉾をおさめるのである。戦後の蔵原、それは小林多喜二をはじめ、血をながして獲得されたプロレタリア文化運動の「財産」を喰いつぶしていく「ゴクツブシ」である。
宮本の日影の花である蔵原に、中野は、一面同情し、一面たよりなさを感じる。その蔵原が新日本文学の大会になぐり込みをかけ、皆の批判の前に遂に正当性がなくなった時、立ちあがって、「会員は誰にも犯されない意見を提出する権利をもっている」と大上段にふりかぶって、中味のない発言をする。中野はそこに見てはならないものを見たような恥かしさや、やり切れなさを感じる。
この宮本と蔵原のやり口の差を中野は裁判の特高警察のやり口と対比させて描いている。特高は二人一組で、一人は怒鳴ったり、なぐりつけたりする、そうすると、もう一人がそれを押し止めるようにして止め、猫なで声で、こちらをじんわりと攻めてくる。このやり口と似ている。宮本が権力には暴力革命の旗をなげ捨てて、こびへつらい、「議会を通じて民主連合政府を」と叫ぴ、「日木軍国主義はまだ復活していない」と佐藤のちょうちんを持ちながら、人民の斗争に対しては、平気でスト破りをやり、ある時は第二機動隊となっておそいかかってきている姿を、中野は「中野の立場」から描き出している。さながら法王のごとくふるまい革命を裏切った宮本顕治に意見がありながら、決して本人が出ていって話したり、解決しないで、見て見ぬふりをしているピエロは蔵原惟人、ほとんど腰を抜かさんばかりに驚ろいてあわわと泡を吹いている二人の中野。
いずれが甲とも、乙とも、丙とも、丁ともつかぬが中野は宮本、蔵原について、小ブルジョア・インテリゲンチャの「人間性」の面から、つまり中野の立場から、たんねんに描き出しているのである。袴田里見のことについてもふれておこう。
中野は、自分もふくめた「転向」の問題について」ほとんどヘドを出すばかり醜く描いている反面、挫折から教訓を得なければならないというふうに、筆を進めている。袴田里見の話は何個所か出てくる。その2、3を読むとかれは例の党内にもぐりこんだスパイを摘発し、いわゆる「スバイリンチ事件が起きる。その袴田が、「非転向」で獄を出てきたことに、なっているが、この男が、実は例の「スパイリンチ事件」では特高の調べにたいしてほとんど図入りでたんねんにその場の説明をしているという伝説についてふれている。
中野はこのように主な登場人物を描写してきたが、その対立面して革命的共産党員を描いていない。このことは中野が宮本修正主義のバクロでは一定の成功をしているが、このままでは読むものをして、客観的には党とはそんなに、腐ったものかというように、つまり反共的気分にさせかねない。この点はさいしょにふれたように、中野が党を対立面の統一の法則で.見ていないからである。「中野の立場」は、宮本一派にたいする鋭い批判者ではあるが、その対立物の一方の側にはなり得ないということもこの小説の弱点である。裏切はかならず反逆を生む。この反逆の立場が、中野の場合、小ブルジョアジーの客観主義になっている。
<この項、続く>
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続き 詩人 礒永秀雄について ――流域文学会第八回全国大会での発言より
http://gongitune.exblog.jp/26201578/
2016-12-04T16:56:41+09:00
2016-12-04T16:56:26+09:00
2016-12-04T16:56:26+09:00
Ygongitune
ゴンギツネの回想
――流域文学会第八回全国大会での発言より
続き <二回>
それは、文学・芸術が誰のためのものなのかということであって、このことを解決しなければどうしようもないという、こういうことがあったんです。
それで帰国後、礒永きんのところへいっていよいよそういう雑誌をつくろうじゃないかと、これは中国の中で内々に話しあっていて、ほぼつくろうという話になっていたが、それで礒永さんのところへつくろうと行った。その雑誌であなたが芸術上の中心になってくれないかと頼んだ。すると、「君はどれぐらいの雑誌を考えているか」というわけです。で、ぼくは「さあ同人雑誌というのは五百ぐらいが限度といいますから、まず千部の雑誌を作りましょう」というと、それでは一杯飲みに行くかという。これは礒永さんのおごりでしたけど、それでもう一軒行こうというので、ハシゴをするのかと思ったら喫茶店に行ったんです。そこは徳山かいわいの文化人や詩人連中の集る喫茶店らしく、そのときそこにいた人々に「われわれは今から新しい雑誌を作る、その発行部数は五千である」というんです。ぼくはたまげてしまって、あんたは五千と気安くいうが売るのは私だという感じで思ったのです。「騎駝」もそれほど出ていないのに『流域』だけ五千も出すといわれてもそれは困るわけです。
しかし彼は、そういう内容の雑誌なら五千は出ると見ていたと思うんです。それはそうでしょう。『夏の約束』は二十万二千の客が見たわけですからね。そういう文学を彼は考えていたと思うんです。五千なんて目ではないという感じだったと思うのです。ぼくは、これはショックだったんです。五千という雑誌を冒頭からいうというのは。千という数でもぎゅうぎゅういう目にあうというようにぼくは思ったのですが、彼は冒頭から五千出せという。で、それはダメですといって、『流域』はたしか千二百か五百か刷ってその程度売れたんです。
やれやれよかったなと思っていたんです。ところが礒永きんの『訪中詩集』というものがその後出ると、これは五千出るわけですね。長周新聞が『訪中詩集』を作って広めると、これは五干売れてしまったんです。
そういう文学が出れば出る。そうでないものだったら千か、千を切れるというか。礒永さんは、そう考えていた。だから、誰のためのものかということを考えたというか、そこの転換点が、ぽくは『訪中詩集』であろうと思うんです。
それからあと、彼が大きく新しい飛躍をしたのが、その後の詩作だと思うんです。その後の詩作のなかでは、ぼくは『前へ』という詩とそれと『星と燃えなん』という詩が一番好きなんです。それは好みですからいろいろ差はあるでしょうけど、ぼくはこの詩は非常にいいと思うのです。今までになかった詩です。
ある人は、それまでは無頼でそれからは行動の詩人になったといいますが、ぼくはそれだけでは彼の詩の問題は総括できないと思う。誰のためのものかということを、かれは戦後一貫して考えてきたけれども、その間題では新しい飛躍に訪中後たったのではないかと思うのです。
それが、彼が過去よさようなら、未来よこんにちはと五十才でいったときの結論というか、飛躍がこの訪中も含めた訪中後の時期に起きたと思うのです。このことが話したい一つです。
それからもう一つ話したいことがあるわけですけれども、それは礒永さんというものはご存じのように戦争中ハルマヘラ島にいて、それで日本に帰ってきて詩人を志した。そういうことがいえると思う。それは多くの日本人の体験であって、戦争というものをどう見るか、戦後社会をどう見るか、つまり戦後出発をどうするか。ここが非常にきびしく問われた。
だから一九四五年ないし四六年というときに、かれが何を考え何を受けついで、どういうように発展していくかということは、かれの文学のうえで非常に大事なことだと思うのです。
一九四五年ないし四六年の春、この前後のことについて、日本の文学の状況がどういうふうになっていたかということについても少し考えてみたいと思います。
四五年の夏から四六年の一、二月という日本の状況でいくつか考えてみたい。これは実はわたし、去年考えてみたいと思っていたんですが、去年忙しくてちょつと持ちこした間題なのです。
その一つは、中野重治の戦後出発というものがあって、かれが一九四五年ないし四六年にどう考えていたかというと、この四五年に考えていたことは、戦争中に抵抗した人間を血糊でつづるようにして戦後出発しなければならないということを「新日本文学」のあとがきの中に書いています。で、団結して敵にあたろうじゃあないかということを四五年の暮れに言っているんです。「新日本文学」の創刊準備号というのを出すわけです。
それで四六年には、中野重治は何をやったかというと、かれは『文芸講話』を日本に紹介したんです。
『文芸講話』というものは一九五一年に鹿地亘がハト書房から出した『文芸講話』という本が最初だと多くの人は思っているんです。そうじゃあないんです。そんなに遅くじゃなくて四六年にはもう中野重治が多くの人の手もとに、届けているんです。戦後出発のとき中野が何を考えていたかということで多くの人が考えているように、「新日本文学」のあとがきだけではなくて戦後出発を『文芸講話』から行かなくてはいけないというように中野が考えたということは、一個の検討材料だと思うのです。
この中野にたのまれ『文芸講話』を日本で最初に訳した人は千田九一という人物なんです。この千田九一という人は、山口県セクトで申し上げるわけではないのですが、これは山口県の防府の出身の人です。防府の出身で山高を出て、東京帝国大学文学部に入るわけです。で中国へ渡るわけです。礒永さんも東京帝国大学で、かれは美学科で千田の九年後輩になるわけですが、片方はハルマヘラに行って、片方は中国へ行ったわけです。
それで帰って来て礒永さんは詩を志した。それが片方は中野重治に頼まれて、その千田九一という人物は『文芸講話』を訳して日本で最初に報告した人物なんです。
この『文芸講話』について中野重治は、この本はすべての党員芸術家がよまなくてはならないし、すべての文学者がよまなくてはならないし、それだけではなく、すべての共産党員がよまなくてはならないといっていた。
こういう戦後出発というものは、少し考えてみる必要があると思う。また一九四六年の二月には、原爆反対ということについて世界に声明を出したドクター・ジュノーという人がいますね。これはジュネーブで発表するわけですがこれが一九四六年の二月ですね。だから一九四五年から四六年というようなものは、そういうものだったわけです。わたしはどうしても、礒永、中野、千田九一という人物などが頭の中にぐるぐるうかぶのです。
礒永さんがハルマヘラで死の狭間にあって、戦後帰ってきて詩人として生きるのだと、それでそこから死者たちの叱陀をうけながら生きて行くんだというふうなことを志した。
そういう詩人であったということは多く言われているし、たとえばかれの詩集もしくは『修羅街挽歌』などを読まれれば鮮明にわかると思う。
しかしもう一つ重要なことは、絶望からの克服というものが文学だ、死との対話がなければ文学ではないということをかれはしばしば言う。そうすると日本に帰って、日本の野山は美しいと、ああ生きていたというところからぼくは詩人にはなれないと思うんです。かれは南方でほぼ死にかかったと思うんです。なんとか自分が、ここにおったということを証明しなければならない。それで死というものがせまってきたときに、何のために死ななけれぱならないかと絶望を克服するために文字を書いたんだと思うんです。
それが、かれの詩集にありますが、最初に書いたのはLという字をいくつも、いくつもリビングとかラブとかいうのを木に切りきずで書いたという。これが詩だ、絶望の克服だと戦後かれが言ったのだと思うのです。だから日本に帰ってきたとき、死者たちの叱咤が聞こえてきて、そうだ俺は生きているが、死者たちのためにうたうべき詩がないから詩人になるのだと言ったのではないだろうか。これはひじょうに重要なことだといま僕は思っています。
ただ一九五〇年に『駱駝』が出来てかれが出発する。その時、仲間の一人に磯村英樹という人がいますが、それは礒永さんと仲の良い人ですが、この人の『石の花』という詩集のあとがきなどは中野重治が書いています。たしか四九年か五〇年の出版だと思います。それで磯村さんはひじょうに詩人として素質があるが、山口県には朝鮮人がたくさんいるのだからそういう人々と共同してたたかえるような、そういう詩をつくってはどうかというのをあとがきに書いてあるんです。
そういう接触は、あったと思われるんです。
また、礒永さんと峠三吉との関係もひじょうに早くから接触があるわけです。それは一九五〇年代にはほぼ出来ていたんです。広島には峠三吉が『われら詩の会』というものをつくって、原爆に反対する歌をどんどんつくっていたんです。それで、そういうような運動があった。その当時、礒永さんは『駱駝』をつくっていくわけです。その時にはすでに峠三吉と接触があるのです。
これはたとえば、『われら詩の会』の会員であって同時に『駱駝』の同人である藤生の国立結核療養所の医者をしていた人物、彼は共産党員なんですが、この男が両方に連絡をとっていたのではなかろうかと思われるんです。
ところがかれが火災ビン派のほうへ行ってしまうんです。そうするとこの男と礒永さんとが真っ向からケンカになる。そんなことで日本がどうなるかという聞題になる。詩と革命が問題になりひじょうにかれは、そういう欺瞞とか何かについては厳しいたたかいを五〇年代からやっていたように思うんです。いんちきな共産党員を非常に早くから見抜いている。
だから原爆の間題についてひじょうに早くから礒永さんはとりあげて描く。しかも原爆については、原爆はひどいんだというのではなくて、原爆を落したやつを告発するんだという形から、原爆問題についてとりくんでいく。
これはかれが戦争の性質というものを見た、第二次世界大戦の性質を見た、だからアメリカ帝国主義に反対しなければならないということを見た。そういうことはひじょうに早くからあったということが証明されると思うんです。
当時、原子爆弾が広島に投下されたということには誰も反対できなかった。誰もこのことを告発できなかった。そんなことは仕様がないんだ、日本人の運命なのだとみんなあきらめていたんです。
それで一九五〇年にはじめて、日本共産党の中国地方委員会があそこで反対ということをやった。アメリカ帝国主義が落したんだ、これは日本人民を虐殺したんだということを告発した。
そこから日本の反帝平和の平和運動が起きる。これを峠三吉がうたうわけです。同じことを礒永さんがやる。
そこからまた考えてみると、原子爆弾を日本に落したのは帝国主義なのだ、これとたたかわなくてはいけないと世界で最初に言ったのは中国共産党なのです。中国共産党が、原爆が落ちて一ヵ月もしないうちにこれに反対だ、こういうことは許すべきでない、日本帝国主義とたたかうということと、日本人民を虐殺していいということは別だと言っている。
これはお調べになったらわかることですが、当時共産党の代表が国民党支配下の重慶にいっていますが、『光明日報』ではっきりとやっている。これが世界で最初に、原爆に反対だと声明したものです。これは他ならぬ中国共産党なのです。
このことなども、峠三吉、礒永などを考えてみると、かれが中国に行くとき「万才」といった理由もわからんでもないというのが少しあります。
それと関連するかどうかは別にして、福島菊次郎さんという写真家がいるわけですね。この人といっしょに『ヒロシマ』というのをつくって、詩と写真とを組んでひじょうに立派な作品を長周新聞に載せておられますけど、被爆者の写真を最初に広島に必死になってとりに行った写真家の中の一人に福島菊次郎さんがいるわけです。自分は職業をもっているけれども寸暇を惜しんで日曜日には必ず被爆者をとりに行く、当時はまだ写きせてくれないわけですから、それをなんとか写真にとるため必死に広島に通ったのが福島菊次郎さんです。それをはげまし「ヒロシマ」にしたのが礒永さんです。こういうことがあると思うのです。
日本で広島に原子爆弾が落ちたのは八月六日なんですね、その人たちを救わなければいけないというので九月の八日の日に薬も何もないときに一五トンの薬をもってすでに広島にとんでいった人物がいる。これはドクター・ジュノーといいます。マルセル・ジュノーというスイス人なのですが、これが一五トンの薬を持って広島にとんでいって、被爆者の治療にあたる。このマルセル・ジュノーつまり略称ドクター・ジュノーですが、かれは国際赤十字の会員なんですが、この人物はどういう人物かというとこれはスペインの内戦に参加しているんです。で、スペインの内戦の中で反ファッショ運動をやって人民の治療にあたった医者です。つまりベチューンに似た人物です。
この人はスペインに行くまえには、エチオピアで毒ガスをイタリーが使いますね、これに反対して人々を助けに行くわけです。それが一九三五年。それが終ってすぐスペインにとんでいる。で、スペイン人民派がフランコに戦争で敗けるとすぐシベリア経由で日本にくるんです。八月九日、長崎に原子爆弾が落ちるその日に瀋陽から羽田まで飛行機で飛んで日本に来ているんです。こういう人物なんですね。
瀋陽の政務所では外国人がひじょうに虐殺されるわけですが、そこにとびこんでいって刑務所の中で大談判をやって助けたりしているわけです。それで瀋陽の刑務所というのはひじょうに残虐な刑務所だったらしくて、さいきん野々村一夫さんの『回想・満鉄調査部』という本が出ているので、あれを読まれたらいいと思いますが、瀋陽の刑務所はひじょうに残虐な刑務所で、中国人や満鉄関係の人がたくさん殺されたりしている。その刑務所へいって、そこから羽田にとんで来ているのです。
そういうスペインのたたかい、それから中国のたたかい、それからエチオピアのたたかい、社会主義ソ連、こういうものを見ながら日本にとんでいった人物、このドクター・ジュノーが広島にさいしょに治療班をもってとびこんでいくわけですね。そうすると礒永さんは、礒永秀雄という名前をそれまで使っていたのだけれども礒永充能という名前に詩人として変えるんです。
礒永さんがクリスチャンだからジュノーか何かになったという、あれは俗説だと思うのです。そんなことは有り得ない。そんなことでは、かれは自分の名前は変えません。
で、それを克服するというか、それを五〇才のさっきいった過去よさようなら未来よこんにちはといったときにまた充能から秀雄に戻るんですね。
礒永さんはアラゴンとか、多くのヨーロッバの詩人についてはひじょうに尊敬しています。自分の世界観をかえるということは、感受性をかえなければならない、感受性をかえなければ文学など出来るわけがない、既成の感受性ではなくて、たえまなく感受性をかえなければならないということをアラゴンから学んだと言っているわけです。その例が「エルザの眼」というわけでしょう。
エルザというのは、マヤコフスキーの奥さんの妹だから、つまりマヤコフスキーの義妹ですね。この「エルザの眼」をアラゴンが歌うときには、ほぼ絶筆状況の中で歌うわけだから、愛をうたうようだけれど実際にはフランス人民と社会主義のソ連を念頭においてアラゴンは書いているんです。それが「エルザの眼」なんです。白分の女房をべたべた歌ってるわけじゃないんです。
そういうように感受性をアラゴンはかえていったんですね。マヤコフスキーは白殺するわけですが、あとソ連ではエレンブルグとかパステルナークとかああいう詩人がひじょうに戦闘的な詩を書きながら闘っていくわけです。そんなことを礒永さんは、ほぼマークしているのではないか。それはかれが、アラゴンと同じように同じ時代をくぐりぬけ感受性をかえなければ文学はできないといった、そういうことを言っていると思うんです。
礒永さんはひじょうに視野も広い。かれがドクター・ジュノーの、赤十字に賛成したのが良いか悪いか、そういう人道主義が、長所か弱点かということについては検討なされば良いけれど、ぼくはそういうように自分の詩というものを、国際的に見ているというか、そういうように戦後を生きてきて、しかも日本に根ざして、日本語の美しさをもって詩を書かなくてはいけないということを強調したのは、礒永さんだと思います。
これはかれの、戦争体験、戦後出発、戦後の「高度成長」のときのまやかしに勝ったこと、だからこそ修正主義とのたたかいを反修詩でたたかいぬいたこと、そして最後に自分がひじょうに高いリアリズムの水準に到達したこととかかわりあいがあると思うのです。
礒永さんの戦争中の出発点というものは、『修羅街挽歌』の中に書いてあるので、お読みになったら良いと思うのですが、余談になりますが『修羅街挽歌』が六〇年にできて、ちょうどその前の年の長周新聞主催の「春の夜の詩祭」というので礒永さんの書いた児童劇、天狗が出てくるんですが、その天狗の役がぼくになりましてね、みんなにやっつけられて火あぶりになる役なんですが、はぐるまの若いやつを育ててやれという意味なのか、とんでもない目に会いましたが、何かぼくをやっつける芝居で、礒永さんはそんなものを書いたのかと思ったものです。
その後、こんどは『修羅街挽歌』というのはKRYで、前にもあとにもぼくは放送劇に出たのはそれが最初でおしまいなんですけれどもその時は修羅の役が僕なんですね。歌える歌がないという役です。今でもありませんけど。歌がないんだ 歌がないんだ とハルマヘラから帰ってくるんだけど、そこは強く印象にのこりました。
それでわたしは思うんですけれど、礒永という詩人と同じようなものが日本にいるとすれば、ぼくはほぼ石川啄木だと思います。啄木は白秋と短歌の競争で敗けて、それで社会主義へいったなどと馬鹿なことをいう人物もいるわけですが、そんなことはありえません。一人の芸術家が社会、国家というものと闘争するときにどういう態度をとるかということを詩人の精神として示したのが啄木です。白秋というのはひじょうになよなよした、掛軸の字を見ればわかりますが、ああいうものを書く日本語の美しさはあったけれども、当時の国家とたたかうというようなそういう短歌は書いていないと思う。
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢつと手を見る
だけがが啄木ではない。
こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて死なむと思ふ
これが啄木なんです。国家を倒してやろう。幸徳秋水を殺した奴を倒してやろう。これが啄木なんです。
いつかはわれわれの観点から啄木を評価しなければならないと思います。啄木はそういう最も戦闘的な詩人の一人だと思う。
世界的にみればロシアの詩人ネクラソフと同じです。不正義を憎むことについて烈火のごとくたたかっていくネクラソフと、ぼくが連想するものはこの二人の人物と詩業です。礒永さんはそれとならぶ詩人だったと思います。
いずれにしても礒永さんは、戦争休験、戦後出発、それで第二次世界大戦の性質はなにか、それは誰がはじめ誰のためのものであったかと、これは告発したと思うんです。
だから、そこがしっかりしていたから戦後の「高度成長」のまやかしに敗けなかったし、修正主義のまやかしに敗けなかったし、最後には高い、社会の進歩のための詩人として成長したと思うのです。
やはり帝国王義を倒さなければ平和は来ない。願っても来ないのだと、そういうような意味でいえばわたしは思うんですが、今年の六月まで礒永さんとつきあって、これからもつきあいますけれども、そういう詩人が早く亡くなったということは残念に思いますけれども、教えられたわけで、やはりそれから何かを学んでやっていくかといえば、われわれはちょっと厳粛というか、少しは厳粛に生きるというか、芸術をやるというか、そういうように生きていこうと思います。
わたしの意見は本当に、つたない意見で、思い出話のようなものでこれについて反対意見があってもいいし、間違いがあれば訂正していただいてもいいわけですが、これで話を終ります。
(1986・7・19)
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詩人 礒永秀雄について ――流域文学会第八回全国大会での発言より
http://gongitune.exblog.jp/26201564/
2016-12-04T16:52:33+09:00
2016-12-04T16:52:18+09:00
2016-12-04T16:52:18+09:00
Ygongitune
ゴンギツネの回想
今にしてそう思う。
1980年代の中頃・・・。
だが今、その過程も終わろうとしている。
その記憶の一里塚として、この文章を再録しておく。
2016年末の日
詩人 礒永秀雄について
――流域文学会第八回全国大会での発言より
藤井義昭 <第一次 山口県文学者代表訪中団 秘書長>
1986年9月 流域41号より
礒永さんが亡くなって十年が来るぞということは、ほぼ二年前から思っていました。何か自分で考えてみなければいけないし、十年というものを節目にして一つの区切りをつけなければならないという思いがありました。礒永さんは流域の会員であったし、流域は流域として考える必要があるし、流域の立場から礒永さんを見ないといけないと思います。
わたくしは、はぐるま座でもあるわけですから、はぐるま座の立場から礒永さんを見る。そういうことを堅持したいと思うし、堅持してきたし、今からも堅持していきたいと思うのです。
二年くらい前に思ったのですが、礒永さんについて、われわれがこの十周年を迎えるのだったら、われわれ流の迎えかたをしようと決心して、礒永さんの詩集というものをなんとかわれわれの演劇作品にしてみたいという決心をしたわけです。
そこでいちばん考えたことは、かれの詩集の全部を作品にしてやるにはわれわれはとてもその才能がないし、またそういうことは出来ない。また彼の詩の特定のものだけを取り出してきてどうこう言うということも出来ない。そこでいちばん中心にわれわれが受け継ぐものは何かと考えました。それは、戦争中というものを生きぬいた人物、戦後というものをたたかいぬいた人物、そしてある歴史的な段階に到達した人物、そういうものがもっともそういうことのわからない戦後の若い世代に何を語るのか、そう考えたのです。
その若い世代はそれから何を学んでどう生きていくのかということを考えるのが、いちばん礒永きんの生き方と芸術から学ぶわれわれの課題ではないかと思ったのです。礒永さんの詩の中にはたくさん好きな詩がありますし、良い詩もあるし、何を中心にすべきかということになって考えたのですが、たとえば戦争体験についていうならば『修羅街挽歌』というものがあって、これは一九六〇年の二月頃に書かれたのだと思いますが、そういう詩がある。
そういう詩もやってみたいと思う。またやる意義があると思う。
しかし若者が礒永さんから何を学んでどういうように生きて、どういうように文学をやっていくのかということになると、それは、わたしたちの考えでは、いちばんふさわしいのは『ゲンシュク』という詩ではないかと思ったのです。
この『ゲンシュク』という詩は短い作品であって、さまざまに評価が別れると思うのですが、われわれはそういう角度から『ゲンシュク』という詩をとりあげたわけです。
そこで『夏の約束』という作品をつくって、そこから礒永さんというものと、若い戦後派といってももっともっと八○年代を生きるような、そういう現代青年との出会いというものを設定して、そこから礒永評価を深刻に考えてみたい、厳粛に考えてみたいというように思いました。
『夏の約束』という作品についてはさまざまに評価があるわけでして、それはそれであっていいわけですが、実際問題は今年の六月末でちょうど二〇万二千の人がこの舞台を観たわけです。それでさまざまな反応がそれぞれ出ているわけですが、われわれからすると予想外の反応だったわけです。
一人の詩人というものが、一つの作品なり、かれの詩が舞台のうえでうたわれて二0万二千の人々に感動をもって受け入れられたということは、何かわれわれの舞台が良かったことではなくて、礒永さんというものがそういう人物であったということを、礒永詩がそういうものであったということをほとほと感じさせられるわけです。これが六月末の段階のわれわれの実感です。
そういうことを思いながら、かれという人物、かれという詩の大きさというか、まあ戦前戦後にない詩人であったというように思います。それには反論もあっていいわけですが。
で、公演もほぼおしまいになって、最後をどこでやるかというので、それは礒永さんの住んでいた室積に近い光市がいいのではないかとなって、光公演を設定してですね、そこで出来たら詩人に観てもらいたい。多くの労働者にも観てもらいたいということがあったので、詩人に呼びかけて、労働者も参加しましたが詩人の力を借りてやったわけです。
たとえば徳山詩の会の田辺朝一さんとか、『らくだ』の片山さよ子さんとか藤元温子さんとか、こういう人々が手伝ってくれたし、観にも来てくれた。その他たくさんの詩人があそこに集ってくれて、評価したわけですが、まあ、だいたいわれわれの礒永観というものとそういう人々の礒永観がほぼ一致したということです。それはわたしたちに大きなよろこびだったわけです。
たとえば『花よジャンケン』という詩は評価のわかれる詩なのですが、あれが戦争体験、しかもそれを若者に伝えたい、それを受けとった若者、それをうたっている。そういうような評価というものはたとえば藤元温子さんなどは一個の驚きというか、はぐるま座は『花よジャンケン』をそういうふうに評価するのかと発言されたと思います。
それはひじょうに詩人との対話としてぼくたちは面臼かったと思います。
わたしはその会場に、たまたま最後だということで観に行ったのですが、車にのって行って光の市民館の会場に近づいて、ハッと思ったんです。それはびっくりするぐらいに思ったのですが、その市民館に入る入口の左に喫茶店があるのです。市民館の喫茶店なのですが、そこに来て思い出したことは、ちょうど七三年に中国に行く前に、山口県から誰が行くのかということでそれは礒永さんが行かないとどうもなるまいということになった。
礒永さんが行かないというなら中止だということで、礒永さんにちょっと話があるのだけれども時間をセットしてもらえないかということで話をした。それでは光市民館の喫茶店で会いましょうということになった。
どこかよくわからないがグルグル、ビルディングの中に入っていってそこへ行った。
礒永さんは入口の奥のほうに座っていた。それでそのとき行ったのはぼくと長周新聞の三井さんなのですが、いろいろ話をしていて、実は中国へ行かないかといって、それで招待きれているが人選の問題があるのだがと切りだした。
冨成さんも行くしあなたも行かないかという話をしたわけですね。それでその話をしていると、とつぜんかれがパッと立ちあがったわけです。
お客は他にもいるわけですよ。ほぼ、ここくらいの大きさの喫茶店の入口のほうで話していてとつぜん立ちあがったわけです。で、立ちあがったとたんに「万才」というわけです。
詩人というのは子どもみたいなところがあるなと思うわけですが、それで「行きます」と。で、行くについては一ケ月ぐらいかかるのだが学校のほうはどうなるかというと、そんなことは問題にもならない、ぼくは断乎いくんだということで、やれやれと二人が安堵したのですが、その会場が光の市民会館だったわけです。
ああそうか、中国へ行くときにかれが「万才」といったのはここだったと思って、そういうことでは光公演は思い出ぶかい公演だったし、公演地だったのです。
そこからさまざまなことを考え出して、今年の夏はちょっと深刻に、それこそゲンシュクという芝居はやったが、やるだけではなくてわれわれ自身が厳粛に物を考えなくてはいけないという思いがしました。
山口県文学者の訪中についてはきまざま語られているし、訪中のときに帰国報告会もやりましたし、何しろ礒永さんの「訪中詩集」というものが出ておりますので、そのことについてあまりとやかく言ったって、詩を誰かが解説してみたってみもふたもない。そういうことはやる必要がないし、みなさんが読まれたとおりだと思うのです。ただいくつかのエピソードを話してみたいと思うのです。
羽田を出て飛行機がずうっと飛んでいると、雲のむこうに富士山が見えた。すると礒永さんが、ああ富士山というのはさかずきをひっくりかえしたていどだなと言ったんです。
たしか夏目漱石の『三四郎』ですか、熊本から上京していく汽車の中で富士山というのはものすごく大きいんだと言ったら、そんなことはあり得ない、富士山というのは日本人が作ったんではないんだ、もともとあったんだ、何で日本人がそんなことを威張るのか、そんなことはつまらんことだと同車していた人物がいうという場面がたしかありましたが、そのていどの富士山なんですね。
それこそ日本人民がつくったものでないことは誇るべきではない、さかずきをひっくりかえしたていどのものなのです。
そんなことを言いながらずうっと飛行機が飛んで、香港から深別と羅湖というものを通って当時の社会主義中国にわれわれは足を踏み入れたわけです。
そこは、資本主義と社会主義という、二つの世界の橋をあそこで通りこしたのです。それでかれは二つの橋をうたうんです。ミラボー橋よりこの橋をうたわなくちゃあならない、人民の橋とミラボー橋ははっきり違うんだということをあの詩の中で書いている。それは、ひじょうな感動としてぼくは受けとめました。そういうようなところから訪中は始まったわけです。かれにとっては確かに二つの世界の差というものがあったし、もう一つは誰のために芸術をやるのかということをかれはひじょうに深刻に考えていたんじゃないかと思うんです
わたしはその時そういうようには、礒永さんと一緒におりながら正直いってわかりませんでした。帰ってきてわかったわけですが、彼はそういうように芸術は誰のためのものなのかという根本的な間題で、ここを解決しなければ自分の詩はもう一歩も前へは出られないということを感じていたと思うんです。だからかれが、五〇歳のときの詩集の最後に、過去よさようなら、未来よこんにちわというように生きるんだと、礒永充能という名まえをやめて礒永秀雄でもういっぺん生きようといって、五〇歳の峠をこした。それで五五歳でかれは亡くなるわけですが、そのあとの残された五年間を誰のために生きるのか、誰のために文学をつくるのかということを深刻に考えて、かれは中国へ飛んだと思うんです。わたしはそう思いました。
富士山は小さいという話をしましたが、小きい話をもう一つしますと、広州に入って広州から北京に飛行機で飛んだんですが、ちょうど上海の左側からずうっと飛行機が夜中に北上するわけです。すると「中国の灯は小さいですね」礒永さんが飛行機の窓から見ながら言うんです。バイカゥントというイギリス製のプロペラ機で飛んでいくわけですが、ほんとうに小さい灯がポツポツポツポツ広い真暗な中にともっているんです。
そこでは人民が革命をやりながらひそやかに住んでいるんです。そういうことを二人が見ながら、ぼくにはこの意味がよくわからないのです。これはかれが中国から帰ってきて、わたしは大陸に海を見に行ったと言ったときに、ああそういう海を見にいったのかと、羽田のキンキラキンのイルミネーションではなくて、つつましやかな人民の灯、そこに海を見に行ったんだ、海の星を見に行ったんだということを思ったんです。私は礒永さんと同じ席に座っていながらぜんぜんわからなかった。
それで北京に行って、私は忙しい仕事がたくさんありまして、その時に日本から新しい号の長周新聞が送ってきました。その中に、礒永さんは詩を書いて長周に二篇ほど送って、それが長周新聞から戻って来たんです。それを北京で読んで、わたしは一人で部屋にいたんですが、ひじょうに感動して震えが止まらなかった記憶が残っています。
そういうようにかれは中国ですごしていたわけです。これはわたしとしてひじょうに勉強になった。詩人がどういうように生きるかということがあるんじゃないかと思います。
北京ではさまざまなことがあったんですが、北京でいちばん礒永さんが注目したことは馬新さんという人の話です。これは浩然が語って聞かせることなんですが、この人民に奉仕するとはどういうことか、それは人民のために革命のために営々と仕事をすることであって、そのことは親から子に受けつぐような他人にわからない努力をすること、そういう革命のためにひっそり行動するということが人民に奉仕するということで、このことはニクソンにいくら話してもわからない、そういうように中国革命はすすんで来たんだ、という話をしたんです。
これは礒永さんの心をひどく北京でうったんです。北京ではいろんなものを見て歩きました。紫禁城の内も見て歩いたんです。紫禁城の中に入ってみると金でできた、子どもを入れるお風呂ぐらいあるタライがあるんです。皇帝はこういうものを使っていたんだといって見せられると、ぼくなんかはびっくりするわけです。ほんとにこれが金ダライというんだと。ぼくはそんなつまらないことを思うんですが、かれは馬新さんに感動しているわけですね。あんな古いものを見たって面白くないんです。何のことかわからない。わたしなどは金があればばレーニンが便所をつくったらいいという話しをしたとか、そんなことはすぐに頭に浮かぷんですが、かれは馬新さんの話を聞いてそれを詩に書いたわけです。
これは、かれが中国革命とか中国の人民の何を見ていたのかということでひじょうに勉強させられたと思います。
それから延安に飛んだんですが、延安では、朝起きたときドーンドーンと音がする。で、礒永さんが「あの音は何だ、あんな大きな音がするなんて大砲をうっているんじゃないだろうか。解放軍が大砲の稽古をしているのか」というんですが、そうじゃないんです。
当時の延安は農業問題がひじょうに悪くて、そのために建設がさかんだった。そのダイナマイトの音がしているんじゃないですかという話をしたんです。そうすると、例の、『延安』という詩が出て、「若者よ 延安にいけ」という。かれはそういうことをコツコツやりながら、中国を歩く。
そして毛沢東が『文芸溝話』をした広場で写真をとってくれといってその石のいすに座ってうつっている。わたしは礒永さんは面白い人だなと思ったんですが、延安の横に南泥湾というのがあって、そこで自力更生ということでたくさんたくさん、八路軍兵士が農業生産をやって、そうして延安を守りぬくという南泥湾を見学に行ったんです。
それで自動車でずっと山をこえていくと雪が降っていまして、自動車が行くか行かないかわからないということなんです。そうするとある一人の人民解放軍の兵隊が前と後ろに荷物をふりわけにして、雪の中をとっととっと延安から南泥湾に歩いていく。ぼくらはハイヤーでひゅうっといく。
「藤井さん忘れちゃいけませんよ、あの振りわけですよ。振りわけ荷物でいかなくちゃダメですよ」
という話をするんです。
で、南泥湾に行ってみると婦人がカバンを抱えて、赤十字のマークがついていて、それでズボンに泥が散るのでめくって、雪の中を露路から露路へ若い一八、九ぐらいの女の人が歩いている。で、「藤井さん、あれは何ですか」という。「あれが有名な、はだしの医者ですよ」というと、「ああ、はだしの医者というのはああいうふうに家を、雪の中でも、ぬれたズックで歩いていくんですか」という話をした。これは南泥湾で、ひじょうに印象がつよかったと思うんです。
かれは古い中国が、比較的、嫌いですね。だから遺跡とかを見にいくと、ほぼ眼っていて、他のことを考えている。それで、新しい中国はひじょうに好きですね。遺跡よりも工揚や人民公社につれていってくれとせがむんです。
それから西安という古い都に行ったんですが、この西安にいったときには例の三つの詩を書いています。で、記憶に残ることは大雁搭というのは七階だての何かの泥で出来た大きなビルディングのようなたてもので三蔵法師がお経をもって帰ってきたところです。そこへ太陽が落ちるのが見ごとだというのでドッドと一番上まであがっていったんです。そうして上ってみるとむこうに秦の始皇帝の墓が見えるわけですけどね。そっちのほうじゃないんです、かれが見るのは。太陽の落ちる方向を見るわけですけどね。それで「赤い毛糸を巻きとるように太陽がおちますね」とひとことかれが言ったんです。このことばは礒永きんの詩のどこかにあったと思いながらその時きいたんですが、それが再び『大雁塔にて』という詩の中に出てくるわけですが、それでその『大雁塔にて』という詩を読んだときに、「礒永さん、こういう詩をなぜ書くんですか。訪中詩の中になぜこういうのを入れるんですか」と言ったら、「こういう詩を入れとかないとね、一部の詩人が訪中詩を詩ではないというんですよ」というわけです。そうなのか、むずかしいことを礒永さんは考えるんだなと思ったんですが、その後訪中詩をめぐってさまざま論がでますから、用心深い人だったんだなと思いましたが、しかし詩人の世界のそういう特殊なことはぼくはちょっとわからないし、詩人でもないから立ち入らないことにしているが、いまになってみるとなるほど先見の明があったんだなと思う。『上海』という詩をめぐって一つの論争が起こりましたからね。だからそういうこともほぼ計算ずみじゃないか、用心深い人だなとその時思ったんです。
ついでのことに言いますと、延安から南泥湾にいくときに、自動車の中でぼくが詩というものはどうしてつくるのかというようなことを言っていたら、「あんた俳優だろう」というから、「そうだ俳優だ」というと、「俳優は詩が書ける。ぼくも東大時代は俳優だったから俳優は詩人になれる。あんたも詩を書け」という。で、ぼくは本当にそうなのかと思ってその後ノートに二冊ぐらい詩をつくったんですけれどもものにならないから、これは礒永さんが嘘をついたということで僕に関してはみこみちがいだったことになります。
北京では詩人や作家にたくさん会ったのですが、その中に李季という詩人がいた。この李季という詩人は例の『文芸講話』が出たあとに中国の革命というか農民の運動を描いた長い叙事詩を書いた、『文芸講話』が出たあとにその線にのって中国の詩を改革した中心人物の一人なのですが、この李季という人が出てきて、われわれと交流したわけです。礒永さんはそのとき、『駱駝』の中では女性がいいのだ、それで女性の詩人がいかにいいかという話をするわけです。李季さんは、よくわからないのです。ぼくはそれも一理あるなと思ってひそかに聞いていたのですが、そしてぼくは中野重治の『甲乙丙丁』が反修文学という話をいっしょうけんめいするんだけれども、これがぜんぜんわからない。「中野重治はソ連派でしょう」という。ソ連派・中国派という人間の切りかたはどうかなとひじょうに思ったわけですが、そういうことがありました。
で、礒永さんが中国革命というものをどういうように見ていたかということはやはり一個の間題だなとも思うんです。
こんなことも李季という人物が『文芸講話』のあとのそういう中心人物でありながら詩の問題について、七三年頃わからなくなったというか、われわれと話が通じなくなっていたということも、一個の驚きとしてはその時ありました。中国に行くと革命中国と思うんですけど、いまになって見ればよくわかるんですが中国が変質しつつあったということです。これが中国かなと思うことがたくさんあったんです。しかし、そのことについては訪中団は一切ふれまいと、日本に帰って話さないという約束をして、中国が悪いという話はしないという決定をして帰ってきた。いまほど悪くなればもういってもいいかも知れませんが、いずれにしても、中国が当時どんどん悪くなっていることはありありとわかったんです。
そのときに礒永さんは、こういうことを言ったんです。
「中国が悪くなってもいいじゃないか。毛沢東は言っているじゃないか。プロ文革は二度も三度もやらなければダメになると。二度も三度もやればいいんだ」と。一言だった。ぼくはそうだと思う。革命というものは何度もやらなければ、一回やったからといって、そのままなら腐ってしまいます。そのことをひじょうに大事なこととして、礒永さんが中国で発言したということは耳に焼きつくように、ぼくは北京で記憶に残りました。
もっとも大事なことは、われわれはさまざまなものを中国で勉強しましたが、文学、芸術が誰のためのものかということについて深刻に考えなければならないということは、礒永さんも、冨成さんもひじょうに強調されたし、そこをやったわけです。
誰のためのものかということを言うのなら、日本に帰ってやらざるを得ないわけです。日本に帰って日本の現実の中で、誰のためのものかということをやらなければぜったいに物事は解決しないんです。
中国をマネたようなことをやったって、それはダメです。
中国の人々がやったように、文学・芸術が人々に奉仕するものであるということを日本の中でやらなければ中国の人から学ぶこともできないし、中国の変質を口実にしてわれわれがちがった道へ行くという効果にもなると思うのです。このことがひじょうにあった。
このことをどうやるか、訪中報告をどうやるか、日本で日本の人民のための芸術をつくるような雑誌をどうやって出すかなどが、おおいに訪中団の中では論争がはじまったわけです。で、あまねく決ったことは、日本の中で文学をやろう。中国で学んだことを日本で生かしてみようじゃないか。ここが勝負だ。ここができなければ、人民に奉仕するというような、そんな文学・芸術はできっこない。それなら新しい雑誌をつくるか。
まだ『流域』という名前はつきませんでしたが、当時は同人誌ではありましたけれども、こういうものをつくろうじゃないかということになったんです。これがぼくは一九五〇年代から山口県中心におきていた文学運動が、中国にいって学んだことを日本のなかで発展きせようと考えたもっとも基本的なことだと思うのです。
<続く>]]>
新西遊記
http://gongitune.exblog.jp/26185591/
2016-11-28T16:06:00+09:00
2016-11-28T19:46:45+09:00
2016-11-28T16:05:54+09:00
Ygongitune
ゴンギツネの回想
もう世も末だ。有難いお教を貰いに西の国に行ってこようと・・・・。
2017年1月 『真冬の夜の夢』
唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へ取経を目指す物語。全100回で中国四大奇書に数えられる。 著者は、『淮安府史』(明、天啓年間成立)に、呉承恩(1504年頃 - 1582年頃、江蘇省出身)の著書として「西遊記」という書名が記述されていることから、彼が作者であると20世紀の中国では定説化していたが、批判的な説が存在し、明確な結論は出ていない。
BYウイキペディア。
三蔵法師 → イギリス メイ
孫悟空 → ロシア プーチン
猪八戒 → アメリカ トランプ
沙悟浄 → 中国 習近平
玉龍(ぎょくりゅう) → ドイツ メルケル
西海龍王敖閏の第3太子であり三蔵が乗っている馬に化身している。
鉄扇公主(てっせんこうしゅ) → インド ナレンドラ・モディ
牛魔王の妻。日本では種族名の羅刹女(らせつにょ/らせつじょ)の名で呼ばれることが多い。火焔山の炎を消すことができる芭蕉扇を持つ。
金角大王(きんかくだいおう) → フランス ミッテラン
正体は太上老君の金炉の童子。銀角の兄。母に九尾の狐がいる。
銀角大王(ぎんかくだいおう) → 日本 安倍ソーリ
正体は太上老君の銀炉の童子。移山倒海の術で悟空をおしつぶそうとするが、失敗する。
西天取経
旅の終盤、とうとう天竺にたどり着いた一行。底のない渡し舟で川を渡る。そのとき、上流から三蔵の抜け殻である死体が流れてきて、三蔵は凡体を脱することができたと喜ぶ。その後釈迦と謁見、経典を授かるもそれは無字の経典だった。新たに字のある経典を授かるが、旅の日数と経典の数が八つ合わないため、一行は雲に乗せられて8日間のうちに東土から西天へ帰ってくるように命じられる。観世音菩薩が三蔵の災難簿を見るとあと一難足りないとある。そこで雲から落とされる一行。通天河に落ちた後、経典を乾かすが紙が岩にくっつき、1字はがれてしまう。長安に戻って太宗皇帝と謁見する一行。経典を渡し、雁塔寺に納めると八大金剛が現れて一行を連れ去っていった。その後西天にて釈迦に称賛の言葉をかけられ、ついに五人は罪を許され、三蔵は旃檀功徳仏(せんだんくどくぶつ)、悟空は闘戦勝仏(とうせんしょうぶつ)、八戒は浄壇使者(じょうだんししゃ)、悟浄は金身羅漢(こんしんらかん)、玉龍は八部天竜(はちぶてんりゅう)となる。悟空の頭からはいつの間にか緊箍の輪が消えていた。
そこで西安・大願塔で聞いた『木魚の由来』
三蔵が、西域から持って帰った大切なお教を、金魚の化け物が食べてしまった。
怒った三蔵が棒で金魚を叩くと、痛いのでの飲込んだお教を一行ずつ吐き出した。
それでお坊さんは、仏さんを拝む時、ポクポクと叩く・・・< のだそうだ!>
で、その木魚の役は誰だろう・・・
< 案外 ―日本国― ではないだろうかな。以前、橋本内閣の時、日本製の自動車は叩き壊されるし、北陸の繊維織機はみな破壊されるし、最近ではブッシュ政権の財務副長官は、日本は安心してアメリカに金を貸したらいい。アメリカ企業が儲けたら、幾らかは日本に還元して上げるから・・とも云った。>
エノケンの孫悟空(1940年、東宝、監督:山本嘉次郎、特技撮影:円谷英二、出演:榎本健一 他)を観た事がある。
まだゴンギツネが小学生だった頃、広島県呉市の映画館で海兵団の水兵や海軍工廠の職工たちに交じって観入った。
戦後では、
西遊記シリーズ(西遊記・西遊記II) (堺正章主演、夏目雅子等)
日本テレビ開局25周年記念番組(1978年10月〜1979年4月、西遊記II:1979年11月〜1980年5月)
結構全部見たかもしれない。
とりわけ夏目雅子の三蔵法師は当り役だった。
1978年10月〜1979年4月までの放送分
放送開始年月孫悟空 三蔵法師猪八戒 沙悟浄 玉龍(白馬)
1978年10月堺正章 夏目雅子西田敏行 岸部四郎(なし)
1979年11月 左とん平 藤村俊二
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マクベス夫人の独白
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2016-11-28T16:02:50+09:00
2016-11-28T16:02:43+09:00
2016-11-28T16:02:43+09:00
Ygongitune
ゴンギツネの回想
マクベス夫人の独白
ロンドン・オールド・ヴィック・シアターの現役俳優たちによる『マクベス』を観たことがある。
男女5人だけの俳優で、入れ替わり、シェクスピア作・マクベスを、全幕通しで上演した。
1980年代半ば。
<下関、梅光女学院の講堂にて・・・>
<名優たちの演技を観た。ささやかな幸せと、感動のひと時>
今は演劇が全てテレビ・映画風のショウーになっている。ドラマは無い。
対立と葛藤・・・それが無い。 ギリシャ以来の人間を描く劇作法が崩れた。
それで生の人間が描けるか! 人の本質が表現できるか・・・
観阿弥 世阿弥のように人間が描けるか。
運命や神と闘う雄大な人間像が立ち上がるのか。
木下順二が言うように、「対立・葛藤」が無くてドラマが成り立つか?という問いに、何ひとつ言いわけも出来ぬまま、日本の新劇は腐って崩壊したのか。
只一口に、時代や資本、アメリカ演劇の影響と言うだけで、言い逃れが出来るのか。
時代が変わったといういい訳で、1980年台半ばから始まるそれまでの社会・歴史の大変化が、理解も感覚も出来なかった芸術精神の衰退に、その原因があったのではないか・・・
今にして思えば、何一つ前に進めなかった、日本演劇界・芸術精神の老化が蔓延っていたのではないか。
眼の前で光る新しい芸術に気が付かなかったのではないか・・・
それで、やはり印象に残る場面は此処。
Scene V. Inverness. Macbeth's castle.
Enter Lady Macbeth, reading a letter.
Lady M. 'They met me in the day of success;
and I have learned by the perfectest report, they
have more in them than mortal knowledge. When
l burned in desire to question them further, they
made themselves air, into which they vanished.
Whiles l stood rapt in the wonder of it, came
raissives from the king, who all-hailed me “ Thane
of Cawdor; ” by which title. before, these weird
sisters saluted me. and referred me to the coming
on of time, with “ Hail, king that shalt be ! ”
This have l thought good to deliver thee, my
dearest partner of greatness, that thou mightst not
lose the dues of rejoicing, by being ignorant of
whal greatness is promised thee. Lay it to thy
heart, and farewell.'
Glamis thou art. and Gawdor; and shalt be
What thou art promised: yet do l fear thy nature;
It is too full o' the milk of human kindness
To catch the nearest way: thou wouldst be great;
Art not without ambition, but without
The illness should attend it: what thou wouldst
highly,
That wouldst thou holily; wouldst not play false,
And yet wouldst wrongly win: thou 'ldst have,
great Glamis,
That which cries ‘ Thus thou must do. il thou
have it;'
And that which rather thou dost fear to do
Than wishest should be undone. Hie thee hither.
That l may pour my spirits in thine ear;
And chastise with the valour of my tongue
All that impedes thee from the golden round,
Which fate and metaphysical aid doth seem
To have thee crown'd withal.
Enter a Messenger.
What is your tidings?
Mess. The king comes here to-night.
Lady M. Thou 'rt mad to say it:
Is not thy master with him ? who, vere't so,,
Would have inform'd for preparation.
Mess. So please you, it is true: our thane is
coming:
One of my fellows had the speed of him,
Who, almost dead for breath, had scarcely more
Than would make up his message・
Laiy M. Give him tending;
He brings great news. [Exit Messenger.
The raven himself is hoarse
That croaks the fatal entrance of Duncan
Under my battlements. Come, you spirits
That tend on mortal thoughts, unsex me here,
And fill me from the crown to the toe top-full
Of direst cruelty! make thick my blood;
Stop up the access and passage to remorse.
That no compunctious visitings of nature
Shake my fell purpose, nor keep peace between
The effect and it! Come to my woman's breasts,
And take my milk for gall, you murdering
ministers.
Wherever in your sightless substances
You wait on nature's mischief! Come, thick night.
And pall thee in the dunnest smoke of hell,
That my keen knife see not the wound it makes.
Nor heaven peep through the blanket of the dark,
To cry ‘ Hold, hold!’
Enter Macbeth.
Great Glamis ! worthy Cawdor !
Greater than both. by the all-hail hereafter !
Thy letters have transported me beyond
This ignorant present. and I feel now
The future in the instant.
Macb. My dearest love.
Duncan comes here to-night.
Lady M. And when goes hence ?
Macb. To-morroW,as he purposes.
Lady M. O, never
Shall sun that morrow see !
Your face, my thane, is as a book where men
May read strange matters. To beguile the time,
Look like the time; bear welcome in your eye,
Your hand, your tongue: look like the innocent
flower,
But be the serpent under’t. He that’s coming
Must be provided for: and you shall put
This night's great business into my dispatch;
Which shall to all our nights and days to come
Give solely sovereign sway and masterdom.
Macb. We will speak further.
Lady M. Only look up clear;
To alter favour ever is to fear:
Leave all the rest to me. [Exeunt.
Scene VI. Before Macbeth's castle.
Hautboys and torches. Enter Duncan, Malcolm,
DONALBAIN, BANOQUO, LENNNOX,MALCOLM,
Ross, Angus, and Attendants.
Dun. This castle hath a pleasant seat; the air
Nimbly and sweetly recommends itself
Unto our gentle senses.
Ban. This guest of summer,
The temple-haunting martlet. does approve,
By his loved mansionry, that the heaven's breath
Smells wooingly here: no jutty, frieze,
Buttress, nor coign of vantage, but this bird
Hath made his pendent bed and procreant cradle:
Where they most breed and haunt. l have ob-
served,
The air is delicate.
Enter Lady Macbeth。
Dun. See, see, our honour'd hostess !
The love that follows us sometime is our trouble.
Which still we thank as love. Herein l teach you
How you shall bid God 'ild us for your pains,
And thank us for your trouble.
Lady M. All our service
In every point twice done and then done double
Were poor and single business to contend
Against those honours deep and broad wherewith
Your majesty loads our house: for those of old,
And the late dignities heap'd up to them.
We rest your hermits。
Dun. Where 's the thane of Cawdor?
We coursed him at the heels. and had a purpose
To be his purveyor: but he rides well:
And his great love. sharp as his spur, hath holp
him
To his home before us. Fair and noble hostess,
We are your guest to-night。
Lady M. Your servants ever
Have theirs. themselves and what is theirs, in
compt,
To make their audit at your highness' pleasure,
・・・
・・・
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