2007年 04月 16日
菜の花と鷲峰山 |
花がない。まったくないというわけではないが、あの匂うような、紫川いっぱいに広がった菜の花がない。
レンゲの花もない。
一緒に歩いていたカメラマンが、やはり気候のせいだろうかという。
春先に温度が高かったからねとも言っていた。
私はそれもあるが、春の流れの水の量と関係があるかと思っていた。
福知山山系から流れてくる水が、いっぱいにあふれて、土砂を運び、その土と一緒に、菜の花の種を一面にまいていたのにと思うのだ。氾濫がすべての生命を育てる。
いずれにしても今年はあの光景にはお目にかかれない。
私は鷲峰山にのぼるためにこの道を歩いていた。その山頂から関門海峡を見るのが好きだ。いろんなことが思い出される。
昨年ここに来たのは、ちょうど熊本県の宇土あたりから、大阪に向かって大王の墓の石を運んでいた時期だ。
近畿地方にある古墳時代の墓に、どうして熊本から、途方もない大きな阿蘇の赤い石が運ばれたのか。
それが一体、どんな方法で、何の理由で、だれがどのようにして運んだのか、そのことについて考古学者や歴史学者、海洋学の人、そして何より海で働く人たちがこれに参加したことだ。
各地の水産学校の学生たちが、何百人もこぎ手となって、人力でなんトンもある石を運んでいった。
つまりこの航海実験には、継体大王に反抗したイワイの戦士たちが、なぜ敗北したのか。
その時に阿蘇周辺の南九州の人たちが、なぜイワイ側からヤマト側についたのか。
つまり日本の古代国家ができていくときの状況に、若い多くの人が興味を持ったからなのだ。
同じごろ、音楽家の谷本仰さんたちが、新しいドラマ「死者の書」を作品として作った。
私はこれも興味があったが、結局見ることができなかった。
これは折口信夫の長編未完小説と関係があるのだろうか。
九州でヤマト政権に対立したのは、先ほど述べた継体・イワイ戦争と、もう一つはこの「死者の書」でも扱われている藤原広嗣の乱である。
藤原広嗣の乱は、太宰府に存在する軍隊と、ヤマトの政権との対立であった。
板櫃川で大野東人の軍によって敗れた。この二つは九州を中心とする大きな戦争であった。
谷本さんの「死者の書」のドラマが、果たして私の思っていたことと、全く関係ない別の題材だったかもしれないし、でもどうなったのか、私は興味があったが、その後の反応も情報も流れないので、なんとなく聞きづらくその間そっとしておりました。
私はこの作品には興味を持っているのです。
南家の郎女が、あるとき大津皇子の夢を見て二上山まで訪ねていく。
そしてある建物の中に入る。
そこは彼岸には、西の二上山、その山の間に太陽が落ちていくというような話で、この建物はもともとと修験道の人たちがはいる山であった。
役行者が立てこもったのもこの山であるといわれている。
「死者の書」にはこうある。
郎女の家は、奈良東城の右京二条第七坊にある。祖父武智麻呂の亡くなつて後、父が移り住んでからも、大分の年になる。父は横佩(よこはき)の大将(だいしやう)と謂はれる程、一ふりの大刀のさげ方にも、工夫を凝らさずには居られぬだて者(もの)であつた。
日本の小説はヨーロッパの文学スタイルを参考にして近代化された。
しかし明治の初めには日本本来の文学スタイルで新しく作品を作っていこうということもあった。
小山内薫や土方世志によってヨーロッパの演劇も入ってきたが、木下杢太郎の
「泉屋染物店」そして久保田万太郎の「大寺学校」のように、日本のスタイルの中から新しい作品を作り出す流れもあった。
こんな問題については何の解決もされず、その後日本は長い戦争に入って行く。
その過程の中で、民衆の中にある日本古来の方法と技術の新しい発見がないかを考えたいくつもの流れがあった。
折口信夫の「死者の書」もそのひとつの流れだったと思う。しかし事はそのようには進まなかった。
日本の民俗学というものがさまざまに誤解され、また本当に正しく発展してきたものなのかどうなのかも、いくらか疑われるようになった最近から考えてみると、こういう問題に立ち返って検討してみた方が良いようにも思う。
たとえば「死者の書」だが、古代国家や律令制国家ができるときにどういう関係にあるのか、最近の新しい歴史学、考古学の発展から見て考える事が出来るようになったと思うのです。
現世の生というものと、死というものをどのように考えればいいのか。
そういうものが時代との関係で、どう定着していくかと言うことに、この南家の郎女は直面する。そして農民たちに教えられて蓮の糸で曼陀羅を描いていく。
それを邪魔にしに来る者たちに対して、郎女の回りに集まった地元の娘や老女たちが、一斉に武装して立ち上がる。大地を踏みしめ、強弓に矢をつがえ兵士たちを撃つ。
「死者の書」より
誰(たれ)ぞ、弓を――。鳴弦(つるうち)ぢや。
人を待つ間もなかつた。彼女自身、壁代(かべしろ)に寄せかけて置いた白木の檀弓(まゆみ)をとり上げて居た。
それ皆の衆――。反閇(あしぶみ)ぞ。それ、もつと声高(こわだか)に――。 あつし、あつし、あつし。
若人たちも、一人々々の心は疾くに飛んで行つてしまつて居た。唯一つの声で、警※(けいひつ)[#「馬+畢」、111-12]を発し、反閇(へんばい)した。
あつし、あつし
あつし、あつし、あつし
狭い廬の中を蹈んで廻つた。脇目からは行道(ぎやうだう)をする群れのやうに。
郎女様は、こちらに御座りますか。
万法蔵院の婢女(めやつこ)が、息をきらして走つて来て、何時もならせぬやうな無作法で、近々と廬の砌(みぎり)に立つて叫んだ。
なに――。
皆の口が一つであつた。
郎女様かと思はれるあて人が――、み寺の門(かど)に立つて居さつせるで、知らせに馳けつけました。
今度は、乳母(おも)一人の声が答へた。
なに。み寺の門に。
婢女を先に、行道の群れは、小石を飛す嵐の中を早足に練り出した。
あつし あつし あつし
声は遠くからも聞えた。大風をつき抜く様な鋭声(とごゑ)が野面(づら)に伝はる。
万法蔵院は実に寂(せき)として居る。山風は物忘れした様に鎮まつて居た。夕闇はそろ/\かぶさつて来て居るのに、山裾のひらけた処を占めた寺は、白砂が昼の明りを残してゐた。こゝからよく見える二上山の頂は、広く赤々と夕映えてゐる。
姫は山田の道場から仰ぐ空の狭さを悲しんでゐる間に、何時かこゝまで来て居たのである。浄域を穢した物忌みにこもつてゐる身と言ふことを忘れさせないものが、心の隅にあつたのであらう。門の閾から伸び上るやうにして、山の際(は)の空を見入つて居る。
暫らくおだやんで居た嵐が、又山に廻つたらしい。だが寺は物音もない。
男嶽(をのかみ)と女嶽(めのかみ)との間になだれ落ちてゐる大きな曲線(たわ)が、又次第に両方へ聳(そゝ)つて行つてゐる此二つの峰の間(あひだ)の広い空際(そらぎは)。薄れかゝつた茜の雲が、急に輝き出して、白銀(はくぎん)の炎をあげて来る。山の間(ま)に充満して居た夕闇は、光りに照されて紫だつて動き初めた。
さうして暫らくは、外に動くもののない明るさ。山の空は、唯白々として照り出されて居る。
肌、肩、脇、胸、豊満な姿が、山の曲線(たわ)の松原の上に現れた。併し、俤に見つゞけた其顔のみはやつれてほの暗かつた。
今すこし著(しる)くみ姿示したまへ。
郎女の口よりも、皮膚をつんざいて、あげた叫びである。山腹の紫は、雲となつて靉き、次第々々に降る様に見えた。
明るいのは山の際(は)ばかりではなかつた。地上は砂(いさご)の数もよまれるばかりである。
しづかに/\雲はおりて来る。万法蔵院の香殿・講堂・塔婆・楼閣・山門・僧房・庫裡、悉く、金に、朱に、青に、昼より著(いちじる)く見え、自(みづか)ら光りを発して居た。
庭の砂の上にすれ/″\に、雲は揺曳して、そこにあり/\と半身を顕した尊者の姿が、手にとる様に見えた。匂ひやかな笑みを含んだ顔が、はじめて、まともに郎女に向けられた。伏し目に半ば閉ぢられた目は、此時姫を認めたやうに清(すゞ)しく見ひらいた。軽くつぐんだ唇は、この女性(によしよう)に向うて物を告げてゞも居るやうに、ほぐれて見えた。
郎女は尊さに、目の低(た)れて来る思ひがした。だが、此時を過ぐしてはと思ふ一心で、その御姿から目を外さなかつた。
あて人を讃へる語と思ひこんだあの語が、又心から迸り出た。
あなたふと、阿弥陀仏 なも阿弥陀仏
瞬間に明りが薄れて行つて、まのあたりに見える雲も、雲の上の尊者の姿も、ほの/″\と暗くなり、段々に高く/\上つて行く。
姫が目送する間もない程であつた。忽、二上山の山の端に溶け入るやうに消えて、まつくらな空ばかりがたなびいた。
あつし あつし
足を蹈み、前(さき)を駆(お)ふ声が、耳もとまで近づいて来た。
それはさながら、古代律令国家というものが、どのような形体でできてきたのか、万世一系の天皇という様なインチキについて、真っ向から対立する意見であった。
こういうテーマだから、世の中から受け入れられるはずはない。ここにまたこの作品の新しさがあった。
私はヨーロッパの演劇に比べて言えば、これがギリシャ悲劇、ソポクレス作のアンチゴネーのようだと思う。
この作品を国家の立場に立つクレオ―ンと愛の立場に立つアンチゴネーの対立のように受け取るより、運命に逆らうアンチゴネーの人間観の雄大なドラマと考えたほうがこのテーマを良く捕らえられると思いました。
つまり、ドラマツルギー上の対立面によって劇を進めているように見せかけながら、それを包み込むもっとより大きい世界に、この中心人物が 神をも恐れず対立しているので、この作品によりドラマ性を感じるのではないでしょうか。
ソポクレス作
アンチゴネーより
祖国の人々よ、私を見てください、
最後の道を行く私を。もう二度と
見ることのない光を、お日様の輝きを
ああ、街よ、家柄貴い人々よ、
ディルケーの川の源よ、
壮観の軍備を誇るテーバイの森よ、
せめてそなたらにだけは、証人になってほしい、私の耐えがたさの。
身内の者に嘆いてももらえず、また、
なんという掟によってか、聞いたこともない、
石を積んで口を閉ざした岩屋の中に、死ににいくのです。
ああ、惨めな。この世でもない、あの世でもない、
生きている人とも死んだ人とも、お仲間でないとは。
ギリシャ悲劇全集 3(岩波書店版) P286
最近折口信夫にふれたドキュメントで、中沢新一が、彼は神と、仏教と、キリスト教を合体させたようなものを考えていた、だから吉野の山と森に入っていったのだと説明していた。
確かにその時代にはそういうことが、例えば、中国で、そして例えばそれが、高野山の空海の世界と関係があったことも理解は出来る。
しかし、こと「死者の書」に関する限り、古代国家というものが、どのようにできていたかという関係とを結び付けて追求しないと、折口が書いたものから離れてしまう。
折口が自分の民俗学を「まれびと」という語の研究から始めたように、日本人はどこからきたのか、今どこにいるのか、どこに行こうとしているのか、そして最も重要なのは「それがどういう状況で語られているのか」、ここから離れると、このテーマは目標を失うようにも思う。
そんなことを考えながら鷲峰山に上った。
なんと入り口をところで、土砂がひっくり返されていた。
JR西小倉駅から走ってくる新しい拡張道路が、丁度この山すそを通るところで古墳が発見されたそうだ。北九州埋蔵文化財研究所の人たちが、プレハブの家を建てて、近く発掘に入るそうだ。
まぁあ発掘にはあまり深入りをしないようにしなければならないが、私は「死者の書」をいろんな角度から、現代に結び付けて考えてみることに興味がわいた。できることなら、何時か、これを一つの作品にしてみたいとも思っている。
by Ygongitune
| 2007-04-16 13:23
| 思いつくままに