2012年 09月 15日
渡辺直己の短歌について |
私が渡辺直己を知ったのは中野重治の「斎藤茂吉ノオト」を読んでからである。
その後「渡辺直己全集全一巻」が創樹社から出た。1994年10月、杉浦明平、久保田正文その他の人たちで編集された。
渡辺直己は広島県呉の人である。
荒神小学校を卒業して広島県立呉中学校に行った。
広島高等師範学校で、芭蕉より蕪村を愛し、卒論「蕪村の一考察」を書いた。
7・7蘆溝橋の年十二月二十三日宇品を発って北支派遣山下兵団岡崎清三郎大隊大野隊小隊長として出征した。
土屋文明が「渡部直己君の戦死」を「アララギ」に発表した。
そしてなんといっても昭和十六年六月、中野重治が『斎藤茂吉ノオト』で詳細に彼の歌を評価した。
数年前、私はつまり 2006年8月15日 の事だが以下の文章を書いた。
いまはこれをそのまま、再度ここに載せようとおもう。
「斎藤茂吉ノート」 中野重治全集 17巻
ノート七 戦争吟
「このような一首は、この歌集の中に置いてみて涙なしには読みえぬものである。」
幾度か逆襲せる敵をしりぞけて夜が明け行けば涙流れぬ
頑強なる抵抗をせし敵陣に泥にまみれしリーダーがありぬ
退きし敵は谷間に集りて死屍埋め居りと斥候の言ふ
草鞋穿(わらじはきて言葉通ぜぬ一隊が今朝南方に移動せりとふ
担架決死隊幾組か出しが尽く傷きて暗し屋根形山に
渡辺直己全集 全一巻
創樹社 1994年 初版
第一部 短歌篇
済南
血に染みて我を拝みし紅槍匪の生々しき記憶が四五日ありき
我に逼りし紅槍匪を咄嗟に殪せしは歩兵一等兵伝法谷金策君なり
慌しく逃れしあとか炕の上にふかしたるままの薩摩芋あり
剰すなき掠奪暴行の跡ならむ薬莢が落ち血に染みし上衣がなげすてられたり
狙撃せし八百の直射弾が命中して屋上の敵がころがり落ちぬ
荒びたる感情に耐えて来えども水清き故郷の山よ恋しき
巧みなる日本語の反戦ポスターが堆くありき阜寧の城に
廃墟となりし廿九軍の兵舎に落書見つつひとときは寂し
南京
煙吐かぬ巨大なる煙突が立ち居りて南京は寂し真夏日の下に
帝大出の補充兵が我に捧銃して歩哨に出て行きたり
雨花台
脇坂部隊がひた押しにけむ雨花台のトーチカも雑草の中にかくれぬ
十二月十二日午前一時にこの陣を奪取せしは水戸工兵隊なありき
一六豆(とをろくまめ)をひそかに兵に貰い来て涙ながして食ひにけるかも
再び北支戦線
朝明に吾が望楼を射撃せし敵黒々と橇にて逃げ行く
妙齢の女が居り新しき自転車がありき匪賊のむらに
射抜かれし運転手をのせて夜の道を帰りつつ思う共匪の強さを
炕の中にひそみて最後まで抵抗せしは色白き青年とその親なりき
壕の中に座らせしめて撃ちし朱占匪は哀願もせず眼をあきしまま
退きし敵は谷間に集まりて死骸埋め居りしと斥候の言う
涙拭いて逆襲し来る敵兵は髪長き広西学生軍なりき
すでに三年戦ひ来つつ麦秋の夕はこほし故里の山
負傷せる匪賊の足が吾が入りし隣の部屋の入口に見えき
幾度か征服されし漢族が生きつぎて行く大河の如く
戦いのひまを求めて臼井氏に「綴方教室」を借りて読みにき
凱旋の噂しきりに伝はれど戦いは遠し共匪を遂ひて
吾が砲に尻打ち抜かれ魚の如倒れて居りし若き匪賊が
さまざまに支那を説きたる書はあれどその一つも肯綮を衝けるはあらじ
草鞋穿きて言葉通ぜぬ一隊が今朝南方に移動せりという
欺瞞して匪は北方に逃れしか昨夜掘られたる壕生々し
南方より侵入したる賀竜匪は美家務に兵を募り居るらし
照準つけしままの姿勢に息絶えし少年もありき敵陣の中に
一年間続いた読売新聞の連載「検証 戦争責任」が終わった。濾溝橋事件から敗戦まで検討のうえ日本人によって戦争責任を明らかにすると言う。
此れを読むと、戦争に狩り出された民衆の戦争観に、全面的に反対しているという立場がある。
戦争(これは歴史と言い換えても良いが)は一部の権力者や政治家だけが遂行するものではない。
民衆から視た第二次世界大戦は、一体どの様な性質の戦争だったのか、戦争の結果、民衆はそこから何をすべきであったか。これが民衆の史観だと思う。
私はこれから、この読売戦争観(これは朝日新聞とも申し合わせて進めているようであるが)と争ってみようと思う。
2006年8月15日 記
<続く>
その後「渡辺直己全集全一巻」が創樹社から出た。1994年10月、杉浦明平、久保田正文その他の人たちで編集された。
渡辺直己は広島県呉の人である。
荒神小学校を卒業して広島県立呉中学校に行った。
広島高等師範学校で、芭蕉より蕪村を愛し、卒論「蕪村の一考察」を書いた。
7・7蘆溝橋の年十二月二十三日宇品を発って北支派遣山下兵団岡崎清三郎大隊大野隊小隊長として出征した。
土屋文明が「渡部直己君の戦死」を「アララギ」に発表した。
そしてなんといっても昭和十六年六月、中野重治が『斎藤茂吉ノオト』で詳細に彼の歌を評価した。
数年前、私はつまり 2006年8月15日 の事だが以下の文章を書いた。
いまはこれをそのまま、再度ここに載せようとおもう。
「斎藤茂吉ノート」 中野重治全集 17巻
ノート七 戦争吟
「このような一首は、この歌集の中に置いてみて涙なしには読みえぬものである。」
幾度か逆襲せる敵をしりぞけて夜が明け行けば涙流れぬ
頑強なる抵抗をせし敵陣に泥にまみれしリーダーがありぬ
退きし敵は谷間に集りて死屍埋め居りと斥候の言ふ
草鞋穿(わらじはきて言葉通ぜぬ一隊が今朝南方に移動せりとふ
担架決死隊幾組か出しが尽く傷きて暗し屋根形山に
渡辺直己全集 全一巻
創樹社 1994年 初版
第一部 短歌篇
済南
血に染みて我を拝みし紅槍匪の生々しき記憶が四五日ありき
我に逼りし紅槍匪を咄嗟に殪せしは歩兵一等兵伝法谷金策君なり
慌しく逃れしあとか炕の上にふかしたるままの薩摩芋あり
剰すなき掠奪暴行の跡ならむ薬莢が落ち血に染みし上衣がなげすてられたり
狙撃せし八百の直射弾が命中して屋上の敵がころがり落ちぬ
荒びたる感情に耐えて来えども水清き故郷の山よ恋しき
巧みなる日本語の反戦ポスターが堆くありき阜寧の城に
廃墟となりし廿九軍の兵舎に落書見つつひとときは寂し
南京
煙吐かぬ巨大なる煙突が立ち居りて南京は寂し真夏日の下に
帝大出の補充兵が我に捧銃して歩哨に出て行きたり
雨花台
脇坂部隊がひた押しにけむ雨花台のトーチカも雑草の中にかくれぬ
十二月十二日午前一時にこの陣を奪取せしは水戸工兵隊なありき
一六豆(とをろくまめ)をひそかに兵に貰い来て涙ながして食ひにけるかも
再び北支戦線
朝明に吾が望楼を射撃せし敵黒々と橇にて逃げ行く
妙齢の女が居り新しき自転車がありき匪賊のむらに
射抜かれし運転手をのせて夜の道を帰りつつ思う共匪の強さを
炕の中にひそみて最後まで抵抗せしは色白き青年とその親なりき
壕の中に座らせしめて撃ちし朱占匪は哀願もせず眼をあきしまま
退きし敵は谷間に集まりて死骸埋め居りしと斥候の言う
涙拭いて逆襲し来る敵兵は髪長き広西学生軍なりき
すでに三年戦ひ来つつ麦秋の夕はこほし故里の山
負傷せる匪賊の足が吾が入りし隣の部屋の入口に見えき
幾度か征服されし漢族が生きつぎて行く大河の如く
戦いのひまを求めて臼井氏に「綴方教室」を借りて読みにき
凱旋の噂しきりに伝はれど戦いは遠し共匪を遂ひて
吾が砲に尻打ち抜かれ魚の如倒れて居りし若き匪賊が
さまざまに支那を説きたる書はあれどその一つも肯綮を衝けるはあらじ
草鞋穿きて言葉通ぜぬ一隊が今朝南方に移動せりという
欺瞞して匪は北方に逃れしか昨夜掘られたる壕生々し
南方より侵入したる賀竜匪は美家務に兵を募り居るらし
照準つけしままの姿勢に息絶えし少年もありき敵陣の中に
一年間続いた読売新聞の連載「検証 戦争責任」が終わった。濾溝橋事件から敗戦まで検討のうえ日本人によって戦争責任を明らかにすると言う。
此れを読むと、戦争に狩り出された民衆の戦争観に、全面的に反対しているという立場がある。
戦争(これは歴史と言い換えても良いが)は一部の権力者や政治家だけが遂行するものではない。
民衆から視た第二次世界大戦は、一体どの様な性質の戦争だったのか、戦争の結果、民衆はそこから何をすべきであったか。これが民衆の史観だと思う。
私はこれから、この読売戦争観(これは朝日新聞とも申し合わせて進めているようであるが)と争ってみようと思う。
2006年8月15日 記
<続く>
by Ygongitune
| 2012-09-15 07:42
| ゴンギツネの回想