2010年 04月 18日
柳井美枝さんのオッカチャンの生涯について |
柳井美枝さんのオッカチャン(柳井千代子 張守祚)が三月に亡くなりました。
私が知ったのは昨日の昼です。うちのカミサンが稲月先生の家に行った時知らされました。私と同い年ですから七十七歳です。
生まれ育った福岡市の海老津炭鉱時代の事、いじめ子に、「この朝鮮人が」と怒鳴って言ったら、相手は家まで付いてきて「お前の家こそ朝鮮人だろう」と言われた。驚いて母親に「内は朝鮮人なの」と聞いて初めてそれを知ったそうだ。
朝鮮戦争の時は、父が北側支持で、夫は南支持で家中が争って大変だったこと、強制連行で北九州に来た朝鮮人の生活のこと、子供の育て方のこと、拉致問題が表面化した時、金石範が採った態度の事などいつもあけすけに話し合った。
思えがオッカサンと知り合ったのは15年前でした。
彼女が「勉強したい」と訴えたので、娘が北九州市立大学の先生に訴えて穴生の公民館で夜間学校「青春学校」が生まれました。多くの賛同者がこれに協力して発展して行きました。
ここを足がかりに勉強した人は優に千人を超えていると思います。労働者、教員、学生、地域自治体の有力者、市民ボランタリー、たくさんの人が集まりました。
数年前には、ペさんの母ちゃんの死がありました。彼女は優に80を超えていましたがそれでも「あいうえお」から学んでいました。
ペさんの母ちゃんはいつも「あんた在日だろう」「いや、違いますよ」「隠さんでもいいよ。みんな知ってるから」「本当に違いますよ」にこにこと相手の眼の奥を覗き込みながら、ひそひそ声で話したりした。私は間違われたことを今でも誇りに思っています。
みんな次々に去っていく。在日の人に日本語を教えるというのは、不思議なことですがかなりの反対がありました。
日本に住んでいる在日朝鮮人には、ハングルを教えるというのが正しいのではないか、とも言われました。
そうではなく、日本に住んでいて日本の字が読めないから、住民表も取りに行かれないし、病院に行くのに、バスの行き先が読めないから、穴生から黒崎まで歩いて行くというのです。
戦争中も、戦後も、こんな人たちを今まで、ほっておいたのです。
教育の機会均等をいう日本の教育界は何をしていたのでしょう。
義務教育すら受けられなかったのは、これは在日朝鮮人の問題ではなく日本の教育問題です。
これは学んでいる人たちではなく、教えている私たちが、なぜこんなことが起きたか、その歴史と社会問題を痛切に反省し、学ばなければならないと考えました。
毎週木曜日には小倉紫川インターから高速道を車で走り、穴生公民館の教室に行きました。
青春学校の性質については世話人代表、稲月正先生の丁寧で正確な紹介文があります。
<文集「青春学校」第16集 青春学校と丸山学院――歴史の中に生きる>
「学び舎」のこと 「読み書き教室・城野」の事
柳井千代子( 張守祚)さんに関連して、最初に書いた先の文章も参照下さい。
夏の覚書 「帝という文字に付いて」
リンク先
http://www33.ocn.ne.jp/~gongitune/natuoboe.htm
私が知ったのは昨日の昼です。うちのカミサンが稲月先生の家に行った時知らされました。私と同い年ですから七十七歳です。
生まれ育った福岡市の海老津炭鉱時代の事、いじめ子に、「この朝鮮人が」と怒鳴って言ったら、相手は家まで付いてきて「お前の家こそ朝鮮人だろう」と言われた。驚いて母親に「内は朝鮮人なの」と聞いて初めてそれを知ったそうだ。
朝鮮戦争の時は、父が北側支持で、夫は南支持で家中が争って大変だったこと、強制連行で北九州に来た朝鮮人の生活のこと、子供の育て方のこと、拉致問題が表面化した時、金石範が採った態度の事などいつもあけすけに話し合った。
思えがオッカサンと知り合ったのは15年前でした。
彼女が「勉強したい」と訴えたので、娘が北九州市立大学の先生に訴えて穴生の公民館で夜間学校「青春学校」が生まれました。多くの賛同者がこれに協力して発展して行きました。
ここを足がかりに勉強した人は優に千人を超えていると思います。労働者、教員、学生、地域自治体の有力者、市民ボランタリー、たくさんの人が集まりました。
数年前には、ペさんの母ちゃんの死がありました。彼女は優に80を超えていましたがそれでも「あいうえお」から学んでいました。
ペさんの母ちゃんはいつも「あんた在日だろう」「いや、違いますよ」「隠さんでもいいよ。みんな知ってるから」「本当に違いますよ」にこにこと相手の眼の奥を覗き込みながら、ひそひそ声で話したりした。私は間違われたことを今でも誇りに思っています。
みんな次々に去っていく。在日の人に日本語を教えるというのは、不思議なことですがかなりの反対がありました。
日本に住んでいる在日朝鮮人には、ハングルを教えるというのが正しいのではないか、とも言われました。
そうではなく、日本に住んでいて日本の字が読めないから、住民表も取りに行かれないし、病院に行くのに、バスの行き先が読めないから、穴生から黒崎まで歩いて行くというのです。
戦争中も、戦後も、こんな人たちを今まで、ほっておいたのです。
教育の機会均等をいう日本の教育界は何をしていたのでしょう。
義務教育すら受けられなかったのは、これは在日朝鮮人の問題ではなく日本の教育問題です。
これは学んでいる人たちではなく、教えている私たちが、なぜこんなことが起きたか、その歴史と社会問題を痛切に反省し、学ばなければならないと考えました。
毎週木曜日には小倉紫川インターから高速道を車で走り、穴生公民館の教室に行きました。
青春学校の性質については世話人代表、稲月正先生の丁寧で正確な紹介文があります。
<文集「青春学校」第16集 青春学校と丸山学院――歴史の中に生きる>
「学び舎」のこと 「読み書き教室・城野」の事
柳井千代子( 張守祚)さんに関連して、最初に書いた先の文章も参照下さい。
夏の覚書 「帝という文字に付いて」
リンク先
http://www33.ocn.ne.jp/~gongitune/natuoboe.htm
by ygongitune
| 2010-04-18 11:05
| ゴンギツネの回想